日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

享保名物帳

【刀剣紹介】若江十河正宗

若江十河正宗 『享保名物帳』焼失之部所載、相州正宗極めの短刀です。河内国若江(大阪府東大阪市)から出たから、あるいは織田信長のとき、若江三人衆とよばれた、池田丹波守・多羅尾常陸介・野間左膳ら三人のうちの誰かの所持だったので、若江正宗とよびます…

【刀剣紹介】分部志津

分部志津 『享保名物帳』所載、志津兼氏極めの刀です。もと伊勢国奄芸郡上野(三重県津市)の城主・分部光嘉所持でした。光嘉は関ヶ原の役で、富田信高の津城に立てこもったが、西軍の来襲に敗れ、高野山にのがれました。しかし、東軍に加担した点を買われ、所…

【刀剣紹介】米沢藤四郎

米沢藤四郎 『享保名物帳』焼失之部所載、粟田口吉光の短刀です。初め豊臣秀吉所蔵でした。おそらく秀吉の遺物として、羽州米沢城主・上杉景勝へ贈られたのでしょう。景勝はこれを二代将軍秀忠に献上しました。秀忠は寛永二年(一六二五)二月五日、三男の駿河…

【刀剣紹介】矢目行光

矢目行光 『享保名物帳』追記の部所載、「行光」と二字在銘です。徳川将軍から紀州家拝領です。慶安二年(一六四九)、百枚の折紙付きです。拝領はそのころでしょう。後年、紀州家より出羽秋田城主・佐竹家へ贈りました。その時期は不明であるが、佐竹義処の長…

【刀剣紹介】村雲江

村雲江 『享保名物帳』の原本にはなく、後世に追記したものです。越中の郷義弘極めの刀です。本阿弥光徳が江州から取り出してきて、豊臣秀吉に見せたところ、村雲のような刃文だ、と言ったので、それが刀号となりました。それが加賀の前田家に伝来していて、…

【刀剣紹介】村雲久国

村雲久国 『享保名物帳』焼失之部所載、粟田口久国作の太刀です。もと関白秀次の母の守り刀です。秀次の菩提を弔うため、文禄五年(一五九六)、瑞竜寺を今の京都市上京区竪門前町に建てました。その付近を村雲というので、俗に村雲御所と呼ばれました。出家し…

【刀剣紹介】陸奥新藤五

陸奥新藤五 『享保名物帳』所載、相州の新藤五国光作の短刀です。もと会津城主・蒲生氏郷所持でした。それから子の秀行、孫の忠郷に伝わりました。忠郷はわずか十歳で藩主となり、老臣・森川半弥の輔導をうけていたので、これを半弥に与えました。忠郷が寛永…

【刀剣紹介】三好正宗

三好正宗 『享保名物帳』焼失之部所載、相州正宗在銘の短刀です。越後国刈羽郡三島郷(新潟県柏崎市)の郷士・三島典膳が、わざわざ相州鎌倉に行って造らせたもの、という話があるが、これは後世の創作です。三好長慶が本阿弥光利の取り次ぎで、金十六枚で入手…

【刀剣紹介】三好江

三好江 1.『享保名物帳』焼失之部所載、越中の郷義弘極めの太刀です。三好長慶旧蔵といいます。三好重代の郷義弘の太刀は、刃長二尺六寸五分(約八〇・三センチ)ありました。三好郷はこれを磨り上げたものでしょう。 豊臣秀吉が天正十三年(一五八五)、紀州名…

【刀剣紹介】松浦信国

松浦信国 『享保名物帳』追記の部所載、尾州徳川家蔵です。これの説明に、「足を上り竜とも云、脇差の由、光律被申」とあります。これは本阿弥長根が、元文二年(一七三七)没の本阿弥光律の記録を見て書いたものです。光律は『享保名物帳』編集当時、生存して…

【刀剣紹介】舛屋江

舛屋江 『享保名物帳』焼失之部所載、越中郷義弘極めの刀です。増屋江とも書きます。もと京都小川通りの舛屋了二所持でした。宇喜多秀家が豊臣秀吉へ献上しました。埋忠明寿・寿斎に命じて、刃長二尺一寸一分(約六四・〇セン チ)、または二尺一寸一分五厘(約…

【刀剣紹介】増田来国次

増田来国次 『享保名物帳』焼失之部所載、来国次作の短刀です。もと豊臣秀次所持でした。秀次の 生存中か、自害後か、不明であるが、文禄(一五九二)年中、研師の木屋が入手して、豊臣秀吉へ金八枚で売りました。 秀吉が逝去後、遺物として、大和郡山城主・増…

【刀剣紹介】母子丸

母子丸 名刀の異名です。謡曲『紅葉狩』の主人公にもなっている、余五将軍・平維茂の佩刀です。母子丸は慕狐丸の宛て字かともいいます。維茂の八代の孫・平長茂は、文治(一一八五)ごろの人であるが、生まれるとすぐ行方不明になりました。四年後に狐塚、つま…

【刀剣紹介】不動国行

不動国行 1.『享保名物帳』焼失之部所載、来国行作の小太刀、初め足利将軍家蔵でした。天文二十三年(一五五四)、狩野介が相州康春に模造させた刀銘には、「相州住康春作 不動国行之写 天文廿三年二月日 狩野介所持」とあります。狩野氏は伊豆国田方郡狩野郷…

【刀剣紹介】二筋樋正宗

二筋樋正宗 『享保名物帳』焼失之部所載、相州正宗極めの短刀です。もと山名弾正所持といいます。山名家は山陰の豪族で、五代宗全のごときは、かの有名な応仁の乱の総大将でさえありました。山名家は初代・時氏を始め、弾正少弼を名乗った人が多いから、「山…

【刀剣紹介】福島兼光

福島兼光 『享保名物帳』追加之部所載、備前長船兼光作の太刀です。福島正則が広島城主だったころ、城下の本国寺(日蓮宗)の住持を処罰しました。その後、本刀が同寺にあることが分かり、正則が没収し、自分の佩刀にしたもの正則は元和元年(一六一五)城地を没…

【刀剣紹介】豊後来国次

豊後来国次 『享保名物帳』追記之部所載、来国次作の短刀です。豊臣秀吉から豊後の大友に下さる、というから、大友宗麟が天正十四年(一五八六)四月、大坂にのぼり秀吉に援助を乞うた時、秀吉は脇差を与えています。それがこの来国次のはずです。徳川家康が文…

【刀剣紹介】福島光忠

福島光忠 『享保名物帳』所載、備前長船光忠作の太刀です。もと福島正則の佩刀です。正則の四男・正利が寛永元年(一六二四)七月十三日、父の遺物として将軍に献上した「大光忠」とは、本刀のことでしょう。『享保名物帳』編集のころ、常州茨城郡宍戸(茨城県…

【刀剣紹介】常陸江

常陸江 『享保名物帳』焼失之部所載、越中の郷義弘作の太刀です。もと木村常陸介重茲所持でした。常陸介は山城淀城主で、関白秀次の家老だった関係で、秀次と同罪として、文禄四年(一五九五)七月十五日、摂津茨木の大門寺で自尽しました。本刀は常陸介が豊臣…

【刀剣紹介】肥後江

肥後江 『享保名物帳』焼失之部所載、越中郷義弘作の太刀です。ただし無銘です。本阿弥光塔の取り次ぎで、肥後国熊本城主・加藤清正がが千五百貫で買ったものです。それで熊本江ともいいます。清正の娘(瑤泉院)は慶長八年(一六〇三)、徳川家康の命により、紀…

【刀剣紹介】樋口藤四郎

樋口藤四郎 『享保名物帳』焼失之部所載、粟田口吉光作の短刀です。樋口はヒノクチとよむのが正しいです。泉州堺の樋口屋という商人です。もとは肥前長崎の商人といいます。樋口屋所持の本刀を、石田三成が金十三枚で買い取り、天正(一五七三)ごろ豊臣秀次へ…

【刀剣紹介】蜂屋江

蜂屋江 『享保名物帳』 焼失之部所載、相州正宗作の刀です。もと越前敦賀城主・蜂屋出羽守頼隆所持でした。 豊臣秀次に献上、さらに秀吉から秀頼に伝わり、三之箱に納められました。慶長十六年(一六一一)正月、本阿弥光徳に命じて磨り上げさせ、埋忠寿斎に金…

【刀剣紹介】上り竜信国

上り竜信国 『享保名物帳』追記所載、京の信国の大脇差です。細川忠興が豊臣秀吉に献上したもので、拵え付きの刀を入れる三之箱に入れてありました。そのとき本阿弥光徳は、押形をとっています。慶長十六年(一六一一)四月二日、徳川義直が徳川家康の使者とし…

【刀剣紹介】上り下り竜正宗

上り下り竜正宗 『享保名物帳』焼失の部所載、相州正宗の短刀です。上り竜下り竜正宗・のぼり竜正宗・のぼる竜正宗ともいいます。もと織田信長の蔵刀で、堺の津田宗及は天正八年(一五八〇)二月二十二日、信長の面前でこれを拝見しています。のち豊臣秀吉が入…

【刀剣紹介】鍋通し正宗

鍋通し正宗 『享保名物帳』追記の部に所載されています。相州正宗作の短刀です。豊臣秀頼が慶長十六年(一六一一)三月二十七日、京都の二条城で徳川家康と対面のさい、家康よりこれと大左文字の刀を贈られました。大坂城では一之箱に納められていたが、大坂落…

【刀剣紹介】綱切り

綱切り 太刀の異名です。 1.『享保名物帳』焼失之部所載、筑紫正恒作の太刀です。佐々木高綱が寿永三年(一一八四)正月二十日、宇治川先陣のさい、河中に張った綱を切ったという太刀です。縄切りとも書きます。その後、桜田十郎が所持しました。明徳三年(一三…

【刀剣紹介】対馬正宗

対馬正宗 『享保名物帳』焼失之部所載、相州正宗作の小脇差です。もと対馬藩主・宗義調の次男、柳川豊前守調信の所持でした。それを研師・木屋の取次ぎで、本多正純が五百貫で入手しました。正純は元和八年(一六二二)改易、流罪となりました。いつの頃からか…

【刀剣紹介】俵屋了戒

俵屋了戒 『享保名物帳』追記に所載、京の了戒の短刀です。もと絵師・俵屋宗達の差料でした。将軍秀忠に献上したのを、秀忠は大聖寺城主・前田利治に与えました。宗達の妻は本阿弥光悦の妻の姉だったので、本刀も光悦の眼鏡にかなった名品だったに違いません…

【刀剣紹介】高瀬長光

高瀬長光 上杉景勝愛蔵三十五腰の一です。 刃長二尺四二分(約七三・六センチ)、刃文は丁子乱れ、物打ちは小模様になる。銘は「長船長光 文永十一年十月廿五日」とある。古い黒鞘の打ち刀拵えがあり、鞘の鯉口に「日光」と墨書がある。 したがって『享保名物…

【刀剣紹介】太子屋国吉

太子屋国吉 『享保名物帳』所載、粟田口国吉作の短刀です。泉州堺の太子屋という酒屋旧蔵でした。 醍醐屋と書くのは誤りです。本阿弥光徳が百枚の折紙をつけました。徳川頼宣がまた駿府にいたころ、将軍秀忠に献上したものを、元和七年(一六二一)、徳川義直…