日本刀の世界 ~日本の様式美~

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【刀剣紹介】舛屋江

舛屋江

享保名物帳』焼失之部所載、越中郷義弘極めの刀です。増屋江とも書きます。もと京都小川通りの舛屋了二所持でした。宇喜多秀家豊臣秀吉へ献上しました。埋忠明寿・寿斎に命じて、刃長二尺一寸一分(約六四・〇セン チ)、または二尺一寸一分五厘(約六四・一センチ)に磨り上げさせ、金具も寿斎に造らせました。大坂落城のさい、死体の下から取り出し、本阿弥家の誰かが将軍秀忠に差し上げました。

折紙は初め百五十枚だったが、その後、二百枚に上がりました。寛永(一六二四)になって、将軍家光はこれを前田利常に与えました。利常は寛永十年(一六三三)ごろ、本阿弥の一族である松田忠右衛門に研がせました。利常の嗣子・光高は、本阿弥光由に象嵌を入れることを命じました。光由が本家の光温のところに持っていくと、差し表に「江」、裏に「本阿(花押)」、と金象嵌を入れてくれました。象嵌入れは埋忠明甫が担当しました。

光高はこれを寛永十八年(一六四一)八月九日、将軍家光の嗣子・竹千代(後の家綱)の七夜祝いに、これに来国次の短刀を添えて献上しました。明暦三年(一六五七)、江戸城炎上のさい焼失しました。

しかし、この刀は真の舛屋江ではなかったようです。と言うのは、『本阿弥光徳刀絵図』や『享保名物帳』流布本では、刃長二尺一寸一分(約六三・九センチ)、『享保名物帳』享保本では、二尺一寸一分五厘(約六四・一センチ)、『松田忠右衛門押形』では、二尺一寸(約六三・六センチ)と短いが、それより後年の記録である『埋忠銘鑑』では、流布本でも寿斎本でも、ともに二尺三寸(約六九・七センチ)、と逆に長くなっています。

刀は短くはなっても、長くなることはありません。二尺三寸が誤記でなければ、両者は同名異物ということになります。大坂落城の時分はまだ金象嵌がなくて、磨り上げ無銘のままでした。死体の下から取り出した刀が、たまたま舛屋江に似ていたため、感違いして舛屋江にしてしまったことも考えられます。

真の舛屋江の作風は、幸い松田忠右衛門が書き遺しておいてくれました。忠右衛門はこれを見て、最初「二字国俊」、二番目に「三原」と入れ、ともにイヤ、三度目に「江」と入れて、やっと当たったといい、さらに大和の当麻のような出来だ、と評しています。

地鉄は 杢目肌であったが、柾目肌が地にも刃にもあったからであろう。『享保名物帳』には「小鋒」とあるが、忠右衛門は「切先立のび」といい、図もそうなっている。刃文は彎れ刃の度合いの深いものだった。棟焼きもあり、鎬地には横手の下、約三寸(約九・一センチ)ぐらいの長さに、湯走りがあった。鋩子は、差し表が小丸、裏は火炎風に尖っていたという。

参考文献:日本刀大百科事典