貞宗
若江貞宗 平造りの脇差です。 二筋樋をかく。刃文は五の目乱れ。鋩子は乱れ込んで焼き詰め。中心は区送り、目釘孔なし。中心尻は剣形。無銘。 参考文献:日本刀大百科事典
若狭貞宗 江戸初期、薩摩の島津家にあった相州貞宗作、一尺(約三〇・三センチ)ばかりの脇差です。由来は不明であるが、慶長十五年(一六一〇)八月、島津家久が琉球王・尚寧を伴い、徳川家康に謁したとき、相州貞宗の大小を与えています。おそらくその小刀のほ…
横山貞宗 加賀藩の重臣・横山式部長治所持、相州貞宗の刀です。刃長不明です。長治は山城守長和(三万石)の三男、初め神谷守孝(九千石)の養子です。慶長十年(一六〇五)、伯父・横山長秀(九千二百五十石)が死去すると、その跡を継ぎました。慶長十九年(一六一…
吉野貞宗 相州貞宗作の刀です。豊臣秀吉が、徳川家康の次男で、秀吉の養子になった結城秀康に与えたもので、その後、子の忠直をヘて、孫の光長に伝わりました。その後は消息不明です。刃長不明、鎬造りで、鎬地に素剣を二筋彫る。刃文は大彎れで、鋩子は丸で…
骨不知 相州貞宗作の脇差の異名です。肥後熊本城主・細川忠利が、寛永十五年(一六三八)正月十二日、島原の乱の援軍として出陣すべし、という命令を将軍家光より受けたとき、家光より拝領したものです。忠利の孫・綱利は慶安四年(一六五一)六月二十七日、襲封…
拝領貞宗 水戸家が元禄(一六八八)年中、将軍家より拝領したものです。 刃長一尺一寸五分(約三五・〇センチ)余。平造り、真の棟。差し表に素剣、裏に護摩箸を彫る。地鉄は小杢目肌、地沸えつき、地景が多い。刃文は小彎れ刃崩れ、鋩子は小丸。中心はうぶ、「…
綱切り貞宗 織田信長の旧蔵刀です。出羽国檜山郡檜山(秋田県能代市)の城主・安東愛季の重臣、南部季賢が、紀州の熊野参詣を企て、路銀を得るため、大鷹三羽を連れて西下しました。まず安土城をたずね、それを織田信長に献上しました。奥州から初めての領主の…
槌食い彦四郎 相州貞宗の大太刀の異名です。但馬国の長という豪族が、貞宗を但馬によんで、四尺三寸(約一三〇・三センチ)の大太刀を打たせました。室町期になって、将軍義教がそれを所望したが、家重代といって提出しませんでした。あまりに催促が激しいので…
獅子貞宗 『享保名物帳』焼失之部所載、相州貞宗作の脇差です。豊臣家の蔵刀で、よほど貴重視したとみえ、一之箱に入れてありました。本阿弥光徳も刀絵図を描いています。異名は拵えの目貫が獅子の図だったことによります。 刃長一尺二寸五分(約三七・ 九セ…
笹切り 1.奥州最上家重代、相州貞宗の太刀の異名です。笹刀ともいいます。山形城主・最上義守が十六歳で、橋下(上山市)の戦に初陣したとき、賞として父より譲られました。その子義光も十六歳で、永禄四年(一五六一)四月四日の夜、高湯温泉(山形市)に父ととも…
狐切り貞宗 出羽国山形城主・松平下総守忠弘が、元禄五年(一六九二)十二月二十八日、将軍に献上した短刀です。忠弘が老後、病をえて江戸に定住すると、本国の白河では家臣が二派にわかれて抗争したため、白河から山形に転封、五万石減封のうえ、閉門を仰せつ…
長銘貞宗 1.『享保名物帳』所載、相州貞宗作の短刀です。徳川将軍家の蔵刀で、寛永七年(一六三〇)に金二百枚の折紙がつきました。同十五年(一六三八)正月十一日、拵えをつけるため、本阿弥三郎兵衛が埋忠家に持参、埋忠与三左衛門が金具を作りました。なお、…
寺沢貞宗 『享保名物帳』所載、相州貞宗作の脇差です。本阿弥祐徳(光徳の二従兄弟)の家来が京都の木の下(上京区)で、金二枚で買ってきたものを本阿弥光徳が相州貞宗に極め、三百貫の折紙をつけました。本刀を肥前唐津城主・寺沢志摩守広高が金二十枚でもとめ…
二筋樋大坂貞宗 もと豊臣家の大坂城にあったので、大坂貞宗とも、また二筋樋があるので、二筋樋貞宗ともいいます。徳川家康の次男・秀康は十一歳のとき豊臣秀吉の養子、十八歳のとき結城晴朝の養子になりました。そんな関係で、秀康が秀吉より拝領し、以後同…
伏見貞宗 相州貞宗作の短刀です。『享保名物帳』所載、ただし原本にはなく、後人の追記したもので、「由緒・寸尺・代付未詳」とあります。江州水口城主・加藤家伝来です。大正十四年十月、同家の売立に出品されたが、親引きになりました。のち同家を出て、昭…
別所貞宗 『享保名物帳』所載、相州貞宗極めの脇差です。もと播州三木城主・別所小三郎長治所持でした。長治は豊臣秀吉に攻められ、天正八年(一五八〇)正月十七日落城、自殺しました。のち筑前福岡城主・黒田長政が入手しました。二代将軍秀忠が黒田邸に臨ん…
切刃貞宗 切刃造りになった相州貞宗の作です。『享保名物帳』所載の刀です。切り付け貞宗ともいわれています。五代将軍綱吉が元禄十年(一六九七)四月十一日、紀州徳川邸に臨んだとき、世子・綱教より備前真守の太刀とともに、本刀を献上しました。以後、将軍…
奈良屋貞宗 『享保名物帳』所載、相州貞宗作の短刀です。もと泉州堺の商人・奈良屋宗悦所持でした。文禄(一五九二)のころ、黄門秀俊が五百貫で購入しました。黄門とは中納言のことで、当時、中納言秀俊と称したものに、豊臣秀保と小早川秀秋とがあります。…
徳善院貞宗 『享保名物帳』所載、相州貞宗の脇差です。初め織田信長の長男・信忠所持、それを嫡子・三法師に与えました。天正十年(一五八二)本能寺の変のさい、信忠は徳善院こと前田玄以法印に、三法師を託し、安土へ逃れさせました。三法師は豊臣秀吉の一…
北荘貞宗 『享保名物帳』所載の脇差です。相州貞宗の作、ただし無銘です。越前北庄から出たので、北荘貞宗と呼ばれました。享保(一七一六)のころは、奥州仙台藩主の伊達家にありました。しかし文化十四年(一八一七)調べの『伊達家御腰物本帳』に見当たり…
御掘出し貞宗 『享保名物帳』所載の太刀です。徳川家康が関ヶ原合戦もすんだあと、伏見において入手したもので、本刀は相州正宗であろうと、自ら鑑定して、本阿弥光徳にみせたところ、その子・貞宗に極まりました。それで、これは掘り出しじゃのう、と喜んで…
朱判貞宗 『享保名物帳』所載、相州貞宗極めの脇差です。もと本阿弥光利所持でした。本阿弥光甫の言によれば、その後、土井大炊頭に売りました。土井家では本刀を将軍に献上しました。将軍秀忠は寛永九年(一六三二)以前に、本刀を前田利常に与えました。同…
斎村貞宗 『享保名物帳』所載、相州貞宗の小脇差です。もと播州竜野城主・赤松下野守政秀所持でした。その子・斎村左兵衛佐政広は関ヶ原の役で初め西軍、のち東軍に寝返り、因州鳥取城攻めに参加しました。そのとき城下を焼き払ったことで、徳川家康から切腹…
日本の美、日本刀 まだ腰に刀を差していた時代、日本刀は自分の身を守るためだけではなく拵えの装いや粋な刀装具を周囲に見せ、その刀を差す武士の品格を表していました。また、現代のように自身を彩るものは多くなく、腰に差す刀剣でその人のお洒落さをも表…
日本の美、日本刀 まだ腰に刀を差していた時代、日本刀は自分の身を守るためだけではなく拵えの装いや粋な刀装具を周囲に見せ、その刀を差す武士の品格を表していました。また、現代のように自身を彩るものは多くなく、腰に差す刀剣でその人のお洒落さをも表…
日本の美、日本刀 まだ腰に刀を差していた時代、日本刀は自分の身を守るためだけではなく拵えの装いや粋な刀装具を周囲に見せ、その刀を差す武士の品格を表していました。また、現代のように自身を彩るものは多くなく、腰に差す刀剣でその人のお洒落さをも表…