日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

2018-09-18から1日間の記事一覧

【刀剣紹介】宇佐美長光

宇佐美長光 伊達家伝来の太刀です。畠山政長が、河内国金胎寺城にたてこもった畠山義就を攻めていた際、越後国琵琶城主・宇佐美左衛門尉政豊も寄手のうちにありました。寛正三年(一四六二)、落城も間近に迫ったある日、政豊は先頭に進んで、目覚ましい働きを…

【刀剣紹介】石灯籠切り虎徹

石灯籠切り虎徹 「石燈籠切」と試し銘の入った長曽祢虎徹の刀です。五千五百石の旗本・久貝因幡守が、注文しておいた一刀ができ上がり、虎徹が持参すると、当時の流行とはいえ無反りなので、因幡守が思わず、これで切れるかのう? と呟きました。では、切れ味…

【刀剣紹介】石田・切込み正宗

石田・切込み正宗 『享保名物帳』所載の刀です。もと「毛利若狭守殿所持」とあるが、森若狭守所持の誤りです。若狭守は関白秀次に仕え、馬廻り組頭を勤めていました。主君を失い浪浪の身になってからであろう、本刀を岡山城主・宇喜多秀家に四百貫で売りまし…

【刀剣紹介】新身国行

新身国行 もと尼子家の重代だったものを、天正五年(一五七七)播州上月城が陥り、尼子勝久が自尽するとき、山中鹿之助に与えました。そこに亀井玆矩が豊臣秀吉の密使として潜入してきたので、鹿之助は新身国行を玆矩に贈ろうとしたが、玆矩は辞して受けません…

【刀剣紹介】安宅志津

安宅志津 『享保名物帳』 の「焼失之部」所載の刀です。『享保名物帳』には、寛永七年(一六三〇)に幕府より来て、二十枚の折紙をつけた、とあるが、それは寛永七年から記載し始めた本阿弥家の留帳「坤」の部にあるのを勘違いしたもので、それを開いてみると…

【刀剣紹介】足利飯塚藤四郎

足利飯塚藤四郎 『享保名物帳』焼失之部に記載されています。駿河大納言忠長の家来に、飯塚半次郎忠重という者がいました。それがこの短刀を愛蔵していて、いつも枕の下に入れていました。本刀を忠長が召し上げて、寛永二年(一六二五)二月五日、前将軍秀忠が…

【刀剣紹介】朝霜次直

朝霜次直 「備中国住次直」と短冊銘があり、さらに金象嵌で「毛利元康所持、依此刀利埋忠磨上之」と入ります。毛利元康は元就の七男で、豊臣秀吉から、実に英雄豪傑、と褒められたほどの勇将です。 刃長二尺三寸一分(約七〇・〇センチ)、大切先で豪壮な姿。…

【刀剣紹介】朝霧正宗

朝霧正宗 『首斬り浅右衛門刀剣押形』所載です。「正宗」と金象嵌があり、「朝霧」と切り付け銘があります。 刃長二尺三寸一分(約七〇・三センチ)。江戸赤坂の坂口嘉七が、山田浅右衛門方へ持参したもの。『万葉集』に、「朝霧の乱るる心 言に出でて言はば忌…

【刀剣紹介】秋田行平

秋田行平 『享保名物帳』の焼失之部に記載されています。もと秋田城之介所持でした。のち甲府左馬頭、つまり将軍家光の三男・徳川綱重の道具となりました。 刃長二尺七寸(約八一・八センチ)。二尺二寸七分(約六八・八センチ)との異説もある。百枚の折紙付き…

【刀剣紹介】秋田正宗

秋田正宗 『享保名物帳』の焼失之部に記載されています。石井正宗ともいいます。その由来について、『享保名物帳』には石井伝右衛門が秋田で求めたから、とあるが、『名物控』には、 秋田で石井伝右衛門が所持していたから、とあって、後説が正しいようです…

【刀剣紹介】秋田則重

秋田則重 『享保名物帳』の焼失之部に所載されています。もと秋田城之介家の伝来刀だったのを、黒田長政が所望しました。秋田家で代金五十両というのに、長政は百両おくりました。長政の孫光之は承応三年(一六五四)五月三日、襲封の礼として本刀を将軍に献上…

【刀剣紹介】秋田国行

秋田国行 『享保名物帳』の焼失之部に記載されています。もと秋田城之介所持でした。越後高田城主・松平越後守光長から本阿弥家にきて、百五十枚の折紙を出したことが、慶安四年(一六五一)七月以後の控え帳に記載されています。その後、将軍家に献上、三千貫…

【刀剣紹介】赤池正宗

赤池正宗 もと勢州松坂城主・古田兵部少輔所持でした。金八十枚の折紙がついていたが、増上寺の所化寮が火事になった際、焼失しました。それは未の年のことというから、寛永八年(一六三一)か、同二十年(一六四三)のことでしょう。古田重恒が慶安元年(一六四…