【偉人の刀剣】蓮如の刀
蓮如の刀
浄土真宗・本願寺の中興の祖と仰がれる蓮如は、親鸞より数えて八代目です。のちの大坂城は、蓮如が建てた石山本願寺の跡です。蓮如が八郎左衛門入道に宛てた手紙に、「彼太刀之事、よその人所望候様に了簡候て給可く候。いかやうにも方便候て、たかく候とも、とりたき由たのみ候て申候」とあります(光慶寺蔵)。この手紙は、蓮如自身が彼太刀をぜひ買ってくれ、と言っているより、よその人に頼まれて、購入の仲介をしている、と解釈すべきであろうが、蓮如自身も刀剣に関心の深かったことは窺えます。
加賀国能美郡能美の刀鍛治・将監家次は、蓮如に帰依し、性賢という法名をもらい、文明六年(一四七四)五月二十八日裏書きの名号、一幅を授けられました。それが現在の正賢寺の開基です。このことも、蓮如が刀剣に関心の深かった一例といえます。
長船賀光の刀に、「備州長船賀光 けんしゅ坊 寛正五年二月日」、と切った二尺二寸余(約六六・七センチ)の刀があります。この「けんしゅ坊」を兼寿坊と解釈し、蓮如の注文打ちとする説があります。蓮如の諱が兼寿だったからです。しかし、刀銘の「けんしゅ」が、兼寿である証拠は何もありません。蓮如より十二歳年長で、臨済宗の高僧だった桂庵も、字を玄樹といいました。仮名で書けば同じく「けんしゅ」です。
この刀は、織田信長が遠山美濃守に与えたものといいます。当時、遠山家に美濃守と称した人はいません。おそらく美濃国苗木城主の遠山家の誤伝でしょう。遠山左近友賢が死去すると、嗣子がありませんでした。織田信長は一族の右衛門佐友勝をして、遠山家を継がせました。したがって、この賀光の刀をもらったのは、この友勝のことでしょう。その子孫は江戸期になっても、苗木城主として一万石をはんでいました。幕末の友寿が美濃守と称していました。織田信長からこの刀をもらった遠山美濃守、というのは、この友寿の誤伝と見るべきです。
参考文献:日本刀大百科事典