日本刀の世界 ~日本の様式美~

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【刀剣紹介】若狭正宗

若狭正宗

享保名物帳』所載、相州正宗極めの刀です。もと若狭少佐とよばれた若狭の小浜城主・木下勝俊が所持していました。勝俊は関ヶ原合戦が起こると、伏見城の総大将を命ぜられましたが、去就に迷っている勝俊を徳川家の家来たちが血祭りにしよう、としているとの風聞を恐れ、城を脱出して京都に退きました。戦後、領地を没収されました。そのとき、家康の怒りをなだめるために本刀を献上したのでしょう。

池田輝政が慶長十七年(一六一二)九月四日、駿河に家康を訪ねた時、本刀を拝領しました。

輝政の子・利隆が、本刀の金具製作を埋忠寿斎に命じたところ、慶長二十年(一六一五)八月十五日にでき上がりました。それを使っての打ち刀拵えは、目貫と笄は後藤祐乗で、小柄は後藤程乗の作、図柄は金の道い竜です。以上の三所で百五十貫の折紙付きでした。小刀は美濃守政常の作です。縁頭は赤銅七子地、鐔は赤銅磨き地です。はばき・切羽・うずら目は金無垢で、柄は白鮫着せ、柄糸は煮紺色です。鞘は蠟色塗りで刀袋は下袋が蜀江錦で上袋が茶地、巻き竜の金欄で、刀箱は黒漆塗りに、金泥で「若狭正宗」と書いてありました。 この拵え製作のとき採った押形は、『埋忠銘鑑』に載っています。利隆の子・ 光政の時になりますと、本阿弥光柴も押形を採っています。それには「光徳金ニテ」と注記があります。当時は本阿弥光徳が入れた正宗という金銘があったことになります。現在は剥げ落ちて、見当たりません。

光政が寬文十二年(一六七二)六月九日に、隠居の挨拶に登城したとき、将軍家綱へ献上しました。近江守継平も享保二年(一七一七)六月、将軍吉宗 の許しをえて、本刀の押形を採っています。その後、将軍家の代々お譲り道具となり、幕末に至りました。
明治二十年十月三十一日、明治天皇が徳川邸へ行幸のおり、新調の刀箱と刀掛けを添え、献上しました。拵えは翌日、 山岡鉄舟を介して追加、献上しました。それで今もって御物になっています。本刀には金千枚の折紙がついています。正宗の折紙では本刀が最高です。

刃長は二尺二寸六分(約六八・五七センチ)、ただし二尺二寸五分(約六八・二 センチ)、または二尺二寸八分(約六九・一センチ)ともいう。反り七分七厘(約二・四センチ)、行の棟、表裏に棒樋をかき通す。物打ちに刃こぼれがあった。今は見当たらない。地鉄は板目肌、綾杉風の肌まじる。刃文は直刃にある間隔をおいて、五の目乱れが一つずつまじる。直刃には小足よく入る。棟焼きが多い。鋩子は乱れ込んで焼き詰め。中心は大磨り上げ無銘。目釘孔二個。

参考文献:日本刀大百科事典

写真:刀剣名物帳「若狭正宗」

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