日本刀の世界 ~日本の様式美~

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【刀剣紹介】水田長光

水田長光

筑後柳川城主・立花宗茂の旧蔵刀の異名です。征韓の役のさい、家臣の風斗就澄が敵兵を五人斬り、六人目に刀が折れました。それでも脇差をもって敵を倒しました。宗茂はそれを賞して、水田長光を与えました。その後、海戦のさい、水田長光をもって敵兵の腰を払ったところ、上半体が海に落ち、六、七間(約一〇・九~一二・七メートル)も泳ぎました。帰国してから試し斬りしたところ、三つ胴を見事に落としました。それで宗茂に献上しようとしたが、宗茂は受け取りませんでした。

宗茂関ヶ原の役で、初め西軍に加わっていたので、役後、奥州棚倉、一万石に移されました。就澄は浪人の身となり、大坂の天満に移りました。藤堂家や柳家から、水田長光を献上すれば、高禄をもって召し抱える、という誘いがかかったが、皆断っていました。元和六年(一六二〇)、宗茂は元の柳川城主に返り咲きました。その祝宴に連なっていた就澄は、宗茂の希望により、水田長光をご覧に入れ、大いに面目を施しました。再び家臣に取り立てられました。

元禄十一年(一六八九)九月六日、江戸の大火により、立花家の蔵刀も焼けました。就澄の曽孫・就秀はそれを聞いて、藩主に水田長光の献上を願い出たが、子孫に伝えよ、といって、受け取りませんでした。就秀は、同藩の儒者・安藤省庵に嘱して、水田長光記を書いてもらいました。

参考文献:日本刀大百科事典