【刀剣紹介】津田遠江長光
津田遠江長光
『享保名物帳』所載、備前長光の太刀です。古くは単に「遠江長光」といいます。初め織田信長所持でした。天正十年(一五八二)、本能寺の変のさい、明智光秀が奪い、本刀を津田重久に与えました。重久は山崎の合戦で破れ、高野山へ逃げていたが、罪を赦され、豊臣秀吉に仕え、禄三百石を与えられました。のち豊臣秀次付きとなり禄三千石、文禄三年(一五九四)、遠江守となり豊臣姓を許されたが、翌年(一五九五)、秀次の自害により浪人になりました。その翌年(一五九六)、当時、越中富山城主だった前田利長に抱えられました。のち知行五千五百石を給せられ、慶長八年(一六〇三)には、加州大聖寺城代となりました。そんな関係で、重久が利長へ献上したとも、重久の子・重以が、藩主・利常に献上したともいいます。
その時期は、寛永四年(一六二七)、前田利常から本阿弥家へ鑑定にやっているから、それ以前でなければなりません。 宝永五年(一七〇八)十一月、藩主・綱紀は世子・吉徳の妻に、五代将軍綱吉の養女・松姫を迎えるので、この刀を本阿弥光忠のもとへやって、金子二百枚の折紙をつけさせ、降嫁のお礼として、名物「乱れ光包」とともに、十一月三十日綱吉へ献上しました。翌六年(一七〇九)五月二十三日、尾州名古屋藩主・吉通が、初めて入国する挨拶にきたとき、将軍家宣より拝領しました。以後、同家に伝来、現在国宝です。
『本阿弥光柴押形』と『本阿弥光温押形』にも、池田(津田)遠江守所持 の「遠江長光」の押形をかかげ、尼子氏が出雲の大場神社へ奉納、と注記しています。大場神社とは島根県松江市大庭町の大庭神社ですが、これは生ぶ中心で、目釘孔の格好も違います。しかし、刃長二尺三寸七分とあって、ほぼ一致しているので、本阿弥家で誤認したことになります。もっとも刃長については、二尺三寸七分(約七一・八センチ)説、二尺三寸七分五厘(約七二・〇センチ)説、二尺三寸八分(約七二・一センチ)説があるが、二尺三寸七分五厘説が正しい。 本刀は、織田信長所持のころ、反りが特に高いので、海老背長光と呼ばれた、という説があるが、反りは七分(約二・一センチ)に過ぎないから、海老背長光というのは誤りである。地鉄は板目肌に、乱れ映り続く。刃文は蛙子まじりの丁子乱れで華やか。鋩子は小模様に乱れ込み、尖り心に返る。中心は二寸五分(約七・八センチ)ぐらい磨り上げ、目釘孔三個。「長光」と二字銘。
参考文献:日本刀大百科事典