日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【刀剣紹介】西方江

西方江

享保名物帳』焼失之部所載、越中郷義弘作の刀です。これはもと刀剣の大家だった三好下野入道釣閑斎所持でした。下野入道は永禄十二年(一五六九)、京都六条の戦に敗れ、失脚しました。それでこれを、泉州堺の西方という豪商に売りました。当時、堺で名刀比べがなされたとき、これは三好長慶差料の郷義弘より出来がよい、というので、「かばねをば東の山にさらすとも名は西方に残る有明」、という歌さえできました。その噂を耳にした徳川家康は、これを西方家から召しあげました。織田信長がまだ在世中のことです。

天正十二年(一五八四)、小牧の戦のあと、豊臣秀吉と和睦が成立した記念に、これを秀吉に贈りました。本阿弥光徳はこれを拝見して、刀絵図を作ったの秀吉は天正十六年(一五八八)七月、毛利輝元が上洛したとき、これを与えました。太刀拵えには、桐紋の金具がつき、鞘は金梨地の豪華なものでした。

輝元は関ヶ原の役のさい、西軍に加担していたが、一族が徳川家康に懇請した結果、罪を許されました。そのお礼として、これを家康に献上しました。家康はこれを尾張藩主の徳川義直に与えました。義直の子・光友は慶安三年(一六五〇)七月二十二日、襲封のさい父の遺物として、これを将軍家光に献上しました。明暦三年(一六五七)正月、江戸城炎上のさい焼失しました。

刃長二尺三寸(約六九・七センチ)、表裏に棒樋をかく。刃文はもと直刃、先は五の目乱れ。鋩子は一枚。中心は大磨り上げ無銘。目釘孔二個。中心先を、本阿弥光徳は切りに描いているが、その後、整形したとみえ、本阿弥光柴は栗尻に描いている。

参考文献:日本刀大百科事典