【刀剣紹介】宗易正宗
宗易正宗
『享保名物帳』焼失之部所載、相州正宗作の短刀です。細川幽斎が豊臣秀吉に献上しました。秀吉が利休に、何か一品遣そう、といったところ、正宗の脇差を戴きたい、といったので、長銘の正宗を与えました。利休はそれに拵えをつけるべく、以前買っておいた古鞘を本阿弥光徳に示し、このとおりに作ってくれ、と頼みました。その古鞘は以前、光徳の伯父・光二が名物「鳥飼国次」のために、拵えたものでした。利休が天正十九年(一五九一)自殺すると、正宗は再び豊臣家に戻りました。
秀頼は慶長十七年(一六一二)、埋忠寿斎に命じて金具を作らせ、拵えを新たにしました。慶長十九年(一六一四)、大坂冬の陣の前、秀頼は長崎の商人・高屋七兵衛にこの長銘正宗を託して、薩摩の島津家久を大坂方へと勧誘させたが、家久は受け取りませんでした。空しく大坂城へ戻った長銘正宗は翌年(一六一五)の夏の陣で焼けてしまいました。徳川家康は大坂から凱旋の途中、これを名古屋城において帰ったので、現在も尾州徳川家に伝来しています。
刃長は八寸六分(約二六・一センチ)というが、八寸三分(約二五・二センチ)が正しい。平造りで反りがある。刃文はもと浅い五の目乱れ、上に行くに従い大きな乱れとなる。銘は差し表に「相州住正宗」、裏に「嘉暦三年八日日」と切る。
参考文献:日本刀大百科事典