日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【刀剣紹介】日月護身剣

日月護身剣

天皇の宝剣の名です。三種の神器につぐ重器とされていた大刀契のうち、三公闘戦剣と並んで重視された御剣です。百済から神功皇后に貢献したもの、と伝えられるもので、後の昼御座剣にあたります。

刃長二尺二寸(約六四・二センチ)、左側 に日・南斗六星・朱雀・青竜、右側に月・北斗七星・玄武・白虎などが象嵌され、「歳、庚申ニ在ルノ正月、百済造所ノ三七錬刀、南斗北斗、左青竜、右白虎、前朱雀、後玄武。深ク不祥ヲ避ケ、百福会就、年齢延長、万歳極マリ無シ」(漢文)という銘があった。

村上天皇の天徳四年(九六〇)九月二十三日、内裏炎上のさい、これも焼けたので、刀身の銘文が読めなくなりました。

安倍晴明にその銘文の調査を命じられました。晴明は木形を作り、それに象嵌や銘文を記入して、提出しました。それに基づき、朝廷では備前から白根安生という刀工を招き、元どおりに模造させました。一条天皇の寛弘二年(一〇〇五)十一月十五日、内裏炎上により御剣の多くが焼けたが、日月護身剣と三公闘戦 剣は焼け残りました。堀河天皇の寛治八年(一〇九四)十月二十四日、内裏炎上のさいまた火をかぶったので、日月護身剣は青竜象嵌がわずかに残り、朱雀は尾だけ残っていました。三公闘戦剣は五星のうち、二星だけと西王母兵符だけが面影を止めている程度でした。後堀河天皇の安貞元年(一二二七)十二月、大刀契が盗難にあいました。翌年 (一二二八)三月、納めてあった櫃が発見され、その中に二霊剣は置き去りにされていました。それに懲りた朝廷では、日月護身剣は大刀櫃、三公闘戦剣は節刀櫃に入れ、天皇行幸のさいは、天皇随行することにしました。後醍醐天皇の時になると、天皇自身が隠岐島に流されるなど、身辺に異変が続出しました。そのため二霊剣も行方不明になりました。南朝では、天子になくてはならぬものなので、神社所蔵の古剣をもとめて、代用していたが、北朝ではさほど重視しなかったとみえ、その後は史上に現れなくなりました。

参考文献:日本刀大百科事典