日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【刀剣紹介】稲葉郷

日本の美、日本刀

まだ腰に刀を差していた時代、日本刀は自分の身を守るためだけではなく拵えの装いや粋な刀装具を周囲に見せ、その刀を差す武士の品格を表していました。また、現代のように自身を彩るものは多くなく、腰に差す刀剣でその人のお洒落さをも表していたといいます。そんな千差万別ある日本刀を紹介していきます。

稲葉郷

『享保名物帳』所載の刀です。本刀のもとの所持者・稲葉勘右衛門とは美濃清水城主・稲葉一鉄の庶子で、名は重執、のち重通と改めました。豊臣秀吉の馬廻役として小牧の役に従軍、その功により河内国狭山郷を加増されました。翌十三年(一五八五)七月十三日、兵庫頭に任じられました。その年の暮れ、本刀を本阿弥光徳に磨り上げさせ「天正十三十二月日 江 本阿弥磨上之(花押)所持稲葉勘右衛門尉」と金象嵌を入れさせました。しかし、重通の差料ならば「稲葉兵庫頭」とするはずです。勘右衛門という通称は、五男の道通がもらっているので、この金象嵌にある稲葉勘右衛門尉は五男の道通のことでしょう。金象嵌は埋忠家にやらせていたので『埋忠押形』にそれが出ています。それには中心先目釘孔がありますが、現在はそれがありません。その後、中心先を七分(約二・一センチ)ほど詰めたことになります。
勘右衛門道通は文禄二年(一五九三)に長兄の跡をついで伊勢国岩手城主となりましたが、わずか二万五千石の小名で徳川家康から所望されれば嫌とは言えません。ついに五百貫で召し上げられました。慶長五年(一六〇〇)に関ヶ原合戦が起こりました。徳川家康ははじめ上杉景勝挙兵の報に接して、下野国小山まで軍を進めた時、石田三成の挙兵が伝えられました。家康は踵を返して西下するにあたり、上杉の抑えとして残す次男結城秀康に本刀と采配、具足などを与え、激励して去りました。
秀康の嫡孫・光長が越後国高田城主だったころ、奇人刀工・木村加卜はそれに仕えていたので、この稲葉郷の拝見を許されたとみえ、その著『剣刀秘宝』のなかに押形を掲げています。それに、差し表の鋩子のうえに、金輪がありますが一枚鋩子になっているため、判然とは見えないことや本阿弥光温が日本に一つ二つの道具、と褒めたことを注記しています。戦後まで秀康の嫡流である津山の松平家に伝来しましたが、戦後同家を出て、現在は国宝に指定されています。
刃長は二尺三寸四分(約七〇・九センチ)で表裏に樋先下がりの刀樋をかく。地鉄は板目肌、地沸えつく。刃文は広直刃に足入り、先次第に乱れ、鋩子一枚となる。

参考文献:日本刀大百科事典
写真:刀剣名物帳「稲葉郷」

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