【刀剣紹介】余野山広次
余野山広次
土佐藩主・山内一豊の差料です。父・但馬守盛豊のころから、山内家重代といわれていたものです。一豊は三河の牧野政倫のもとにいた永禄三年(一五六〇)、政倫の命にそむいた家士を、これで一刀両断しました。
刃長一尺九寸三分(約五八・五センチ)。差し表に「相州住広次」、裏に「よノ山乃 山内対馬守」、と銀象嵌入る。
一豊が対馬守になったのは天正十六年(一五八八)四月であるから、この象嵌はそれ以後に入れたことになります。余野山という異名は、一刀両断したとき、炎穴の風市、つまり直立して、両手を垂れ、その中指が大胆に届いた所まで斬り下げたので、「よの山の高ね高ねを伝ひ来て 富士の裾野にかかる白雲」、という古歌に因んで、命名したものといいます。
刀身は元幅一寸一分四厘(約三・五センチ)、重ね二分九厘(約〇・九センチ)、という健全なもので、差し表に剣巻き竜、裏に梵字の彫刻、という入念作。拵えは、柄の縁に家紋の金象嵌があり、鍔は銀無垢で、唐花の透し入りだった。ただし、鞘は棒鞘のままで、紺色の金欄の袋に入れてあった。
文化二年(一八〇五)、高知城内に藩主・一豊らを祀った藤並神社(現在は山内神社に合祀)が創建されたとき、奉納されました。しかし、平生は城内の西御蔵に保管されていました。大正二年十二月、山内侯爵が帰国、東京に持ち帰ったまま、終戦になり、戦災を免れました。
参考文献:日本刀大百科事典