日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【刀剣紹介】篠の雪

篠の雪

刀の切れ味のよさを讃える刀号です。笹の葉の上につもった雪は、払えばすぐ落ちるのを、刀で払えばすぐ胴体の切れ落ちることに例えたものです。篠の雪という異名のついた刀は多くあります。

1.池田勝入斎信輝の濃州関住兼定

これを「笹の露」とするのは誤りです。もと勝入斎の家来・片切与三郎所持でした。誰も斬れなかった不死身の者を、与三郎のこの刀だけが両断したので、勝入斎が召し上げ、差料にしました。天正十二年(一五八四)四月九日、長久手の戦で討死のときも、これを佩用していたので、その首をあげた永井伝八郎直勝が分捕り、同家の家宝になりました。

勝入斎の子・輝政が永井直勝に対して、その禄高を尋ねました。千石(または七千石)、と答えると、父の首はそんなに安いのか、と不興気でした。輝政の孫・光政が藩主になったとき、直勝が、ご先祖の愛刀だから、お返し申そう、と使者に持たせました。光政は大いに喜び受け取ったが、数日後、永井家の家宝ということは、子供まで知っているところ、永く伝世されたい、 と、返却しました。

直勝の嗣子・尚政は、四男の伊予守直右を分家させ、知行七千石とともに、篠の雪を与えました。直右には不器量な娘があり、縁遠かったが、阿部志摩守正明という五千石の旗本から、篠の雪とともに娘御を戴きたい、と申し込んできました。それを承諾したので、以後、安部家の名物になりました。直右の養子・修理商品が小助川潜了(中村小兵衛)に、この刀の由来を尋ねているところを見ると、永井家にはもうなかったことになります。なお、文政(一八一八)のころ林培斎も成島司直も、阿部正信の家蔵としているから、幕末まで同家にあったことになります。

ところが八代将軍吉宗の上覧に供したときは、永井家から提出しています。享保十八年(一七三三)六月十九日、御用番の松平左近将監が永井家の留守居役に、篠の雪が今もあるならば上覧に備えよ、と命じました。永井播磨守直亮は当時、大坂御定番だったので、家来の小川平太夫が持参して、七月十五日に幕府に提出、将軍一覧の上、同二十七日小川平太夫に返しました。その後、寛保元年(一七四一)にも、寛延四年(一七五一)にも、直亮の嗣子・信濃守直国のもとにあって、一族の者が拝見しています。ところが、安永八年(一七七九)十一月には、永井の分家・永井靭負の所蔵となっています。明治三十八年の上野博覧会には、本家の永井子爵家家から笹ノ雪が出品されています。すると、永井・阿部の両家にそれぞれ笹ノ雪、または篠ノ雪があったことになります。

篠の雪の刃長については、二尺二寸三分(約六七・六センチ)、二尺二寸五分(約六八・二センチ)、二尺三寸三分(約七〇・六センチ)で、二尺三寸六分(約七一・五センチ)などの諸説がある。銘についても、差し表に「兼定(旧字の定)」、裏に「片切与三郎」としたものもあるが、永井家のは差し表に「兼定 笹ノ雪」、裏に「片切与三郎」とあった。阿部家のは差し表に「兼定 篠ノ雪」、裏に「片切与三郎」とあった。つまり笹ノ雪と篠ノ雪で、文字も違っていた。刃文についても、直刃・乱れ焼き・大乱れ・小乱れなどと諸説がある。作者についても、「兼定(旧字の定)」という金象嵌が入ってはいるが、永井家の江戸留守居役・小川平太夫は、兼定ではなく、孫六兼元と鑑定していた。

拵えは打ち刀であるが、永井家蔵のものは、緑・頭ともに無地の赤銅で、六角形の鍔がつくが、阿部家のものは、柄頭は角、縁は二筋入りの赤銅で、八角形の鍔がつく。似てはいるが、明らかに別物である。

2.田中吉信の「笹の雪」

筑後柳川城主・田中兵部大輔吉政の次男・主膳正吉信の差料です。三尺八寸(約一一五・一センチ)という長剣で、自ら「笹の雪 払えば落る此刀 持主田中主膳なりけり」と詠み、これで頻りに手討ちにしていました。剣術の師某を手討ちにした時、誤って自分の膝を傷け、それが破傷風になり、十九歳で早死にしました。

3.島田義助の「笹雪」

義助が江戸においての作で、差し表に「於江戸源義助南蛮鉄」、裏に「笹雪 延宝二」と銘のある刀です。

4.四つ胴落としの「笹雪」

差し表に「かねさた 笹雪」、裏に「四ッ胴 裁断」とあります。「笹雪」だけは銀象嵌、他は金象嵌です。和泉守兼定の作と見えます。

5.越中守正俊の「ささのゆき」

正俊在銘の刀です。「ささのゆき」も切りつけ銘だから、正俊が切ったものです。

6.備中の山城大掾国重の脇差に、「笹ノ雪」と金象嵌があります。

参考文献:日本刀大百科事典