日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【刀剣紹介】笹の露

笹の露

刀の切れ味のよさを讃えた刀号です。笹の葉においた露は、払えばすぐ落ちるのを、刀で払えば胴体のすぐ切れ落ちるのに例えたものです。

1.濃州関の兼元の刀

「笹露 槇嶋監物所持之」と金象嵌があります。細川幽斎の臣・吉田吉助左衛門が、合戦のたびに大業を示したもので、臨終のさい同族の槇島監物に贈りました。その譲り状も現存します。

2.郷義弘の「笹の露」

播州姫路城主・池田輝政の臣・八田豊後所持でした。愛刀家だった輝政がたびたび所望したが、先祖が足利将軍から拝領したもので、これで君の馬前で戦わねばならぬから、と言って断っていました。ある夜、輝政が酒宴の後で、またもや強引に所望しました。豊後が断ると、輝政は怒って長押の薙刀を取りました。豊後はそれを見て、扇子で輝政の顔を叩いておいて退出しました。夜中になって酔いがさめると、豊後を呼び出して、余の誤りだ、気にするな、と豊後を許しました。

3.田中吉忠の「ささのつゆ」

三河岡崎城主・田中兵部大輔吉政の長男・吉次が、関ヶ原で敗れ逃走中の石田三成を捜索していたところ、先手の田中伝左衛門正武が潜伏していた三成を発見、ただちに生捕りにしました。吉次が三成を連れて、徳川家康の陣営に行くと、家康は喜んで、三成が帯びていた手掻包永の短刀を吉次に与えました。ただし、三成の短刀は、名物の栗田口吉光だったとも、豊臣秀吉より拝領の切刃兼真だったともいいます。

同道していた正式に、三成の指していた切刃貞宗脇差を与えたともいうが、それは分にすぎた褒美で、信じがたいです。無銘の京信国の刀を与えた、とする説が真実でしょう。正武の子を伊織佐吉忠、孫を伝左衛門といいます。その孫は、藩主・忠政が元和六年(一六二〇)早世、嗣子なくお家断絶になったため、肥前平戸城主・松浦隆信の家臣となりました。その子孫は寛政(一七八九)の末、つまり『甲子夜話』の著者・松浦静山の代に、禄をはなれ平戸を立ち退きました。そのとき信国は、同藩の中川某に売り渡しました。

その信国は刃長二尺一寸七分(約六五・八センチ)、大磨り上げ物で、刃文は直刃。中心の表に「田中伊織佐吉忠」、裏に「さゝのつゆ」と象嵌銘があった。ただし、「田中伊織佐」と「さゝの」は金象嵌、「吉忠」と「つゆ」は、銀象嵌になっていた。この刀を本阿弥家に鑑定に出したところ、備後貝三原正真の作とし、金十枚の折紙をつけた。

4.大西屋の「笹の露」

備後国尾道十四日町の名家・大西屋は、渋谷金王丸の後裔で、渋谷対馬という先祖は毛利家に仕えていたが、その子与右衛門のとき知行をさし上げ、尾道に移住しました。同家にも「笹の露」という刀が伝来していました。

5.柳生連也の「笹露」

尾州徳川家の剣術指南・柳生厳包(厳知)入道連也の差料の脇差です。

刃長一尺三寸六分(約四一・二センチ)、鎬を高くした身幅の広い、武用重視の作り込み。うぶ中心で、差し表に「秦光代」、裏に「笹露」と草書で切りつけてある。鍔は柳生鍔「三十六歌仙」の一で、波車の透し。これには連也より六代の孫・柳生厳政の箱書がつく。

6.その他、備前祐定の刀に「備前国在人長船祐定之露」、水心子正秀の刀に、「笹露 水心子正秀(花押・刻印) 文化四年八月日」、陸奥大掾長道の刀にも、金象嵌で「笹の露」と入れたものがあります。無銘の刀の差し表に、「命者山路篠雪」、裏に「仏之宿世二返 吉玄番所持之」と金象嵌を入れたものがあります。

参考文献:日本刀大百科事典