日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【刀剣紹介】豊後来国次

豊後来国次

享保名物帳』追記之部所載、来国次作の短刀です。豊臣秀吉から豊後の大友に下さる、というから、大友宗麟天正十四年(一五八六)四月、大坂にのぼり秀吉に援助を乞うた時、秀吉は脇差を与えています。それがこの来国次のはずです。徳川家康が文禄(一五九二)のころ、金二十枚で召し上げたといいます。宗麟の嫡子・義統は、文禄の役において退却の罪を問われ、二年(一五九三)六月、所領を没収、安芸に流されました。それで、これを売りに出したのを、家康が買い取ったのでしょう。

家康はこれを将軍秀忠に譲りました。秀忠は関ヶ原合戦の後、伏見においてこれを、加州金沢城主・前田利長に与えました。利長の跡を継いだ異母弟の利常は、それを老中・本多正純に贈りました。正純が元和八年(一六二二)、将軍の勘気にふれ、出羽の由利に追放となり、この短刀も消息不明となりました。

参考文献:日本刀大百科事典

【刀剣紹介】福島光忠

福島光忠

享保名物帳』所載、備前長船光忠作の太刀です。もと福島正則の佩刀です。正則の四男・正利が寛永元年(一六二四)七月十三日、父の遺物として将軍に献上した「大光忠」とは、本刀のことでしょう。『享保名物帳』編集のころ、常州茨城郡宍戸(茨城県西茨城郡友部町)の藩主・徳川頼道のもとにありました。すると、将軍家より頼道、またはその父・頼雄へ下賜されたものでしょう。

刃長二尺三寸七分五厘(約七二・〇センチ)、表裏に樋をかく。在銘、金三十枚の折紙付き。

参考文献:日本刀大百科事典

【刀剣紹介】不動丸

不動丸

大久保石見守長安の刀です。武州下原照重の篆書体の銘で、刃長二尺一寸六分(約六五・四センチ)の刀に、「比刀去慶長ノ頃大久保石見守 号不動丸□指領タリ 爾後三拾余年ヲヘテ正保内皮曆 甲府在番ノ時 不計為得求之 渡辺久左衛門尉源朝臣善光所持」、と切り付けたものがあります。差し表に、櫃のなかに不動明王の浮き彫りがあるため、不動丸と命名したものです。

大久保長安徳川家康に仕えて、金銀鉱山の代官です。所領が八王子横山にあったので、照重の領主でもありました。慶長十八年(一六一三)四月二十五日没、六十五歳でした。渡辺善光は、正しくは渡辺善と一字名です。五千石の旗本で、正保三年(一六四六)四月十五日、甲府城在番になっているから、刀銘と合致します。慶安三年(一六五〇)六月二十三日没、四十七歳でした。

参考文献:日本刀大百科事典

【刀剣紹介】兵庫守家

兵庫守家

丸毛光兼の佩刀、備前の畠田守家作の太刀です。光兼は長照・長住ともいい、号は不白です。兵庫頭、のち河内守と称しました。初め斎藤竜興に仕え、のち織田信長、さらに豊臣秀吉に仕え、天正十七年(一五八九)、濃州安八郡福束城主、二万石に封じられました。

その子・三郎兵衛兼利は、親吉・安習・兼頼・長隆などともいわれ、福束城主だったが、慶長五年(一六〇〇)、関原の役で西軍に属したため、八月十七日、城を棄てて逃走しました。紀州高野山にのがれ、入道して道和と称しました。のち、加賀藩主・前田利常に拾われて、禄二千石を給せられました。正保四年(一六四七)没しました。尾州徳川家の資料に、高野山より出で、とあるのは、高野山隠遁中の兼利が手放したことを言うのでしょう。それを徳川家康が入手したとみえ、その死後、形見として同家に入ったものです。

刃長二尺三寸九分(約七二・四センチ)、小板目肌に、乱れ映りがあり、刃文は蛙子まじりの丁子乱れ。中心は磨り上げて、目釘孔二個。佩き表に「備前国長船住守家」と切る。戦前、重要美術品、戦後、重要文化財に指定された。

参考文献:日本刀大百科事典

【刀剣紹介】姫斬り

姫斬り

刀の異名です。

1.源頼光が唐からきた武悪太夫という名工に作らせた、朝霞の後の名です。八幡太郎義家が相伝したころは、毒蛇と改名されていました。義家が馬で宇治橋を渡っていると、突然、波の間から妙齢の美女が現われ、義家を河中に引きずり込もうとしました。すると、腰の毒蛇がひとりでに抜け出し、美女の左腕をばっさり切り落としました。美女は悲鳴をあげて、河中に姿を消しました。それで姫斬りと改名されました。後に曽我五郎時致がこれで、親の敵を討つ、という物語になります。

2.吉川家の蔵刀です。吉川元春が父・毛利元就の館に、夜中出かけて行くと、あとから元春の娘がついて来ました。そんなはずがない。化生の者とにらみ、脇差を抜いて、不意に切りつけました。確かに手応えはあったが、素早く逃げ去りました。したたる血潮の跡をつけて行くと、岩穴の中に消えていました。家来に掘らして見たところ、女が死んでいました。それでその脇差を、姫斬りと名付けました。元春の四世の孫、防州岩国の城主・吉川広嘉が、延宝七年(一六七九)死去した時、形見として、毛利本家の世子・元千代丸(吉就)に贈られました。

参考文献:日本刀大百科事典