日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【刀剣紹介】向井国広

向井国広

江戸幕府の船奉行・向井忠勝所持、堀川国広作の脇差です。

刀長一尺二分(約三〇・九センチ)、平造り。地鉄は小板目肌詰まり、地沸えつく。刃文は中直刃、小沸え出来。鋩子小丸。差し表に杖、裏には樋のなかに、払子の浮き彫り。その下に「錯凌臓雪辞片岡高峻帰心得太刀山(県印)」、その下に達磨の像を彫る。中心はうぶ。差し表に「洛陽一条住藤原国広造(金象嵌)向井将監忠勝所持之」、裏に「慶長十五庚戌二月日」と在銘。

この脇差は、向井忠勝が二十九歳の時、出来たものであるが、忠勝の注文で作ったものでないことは、所持銘が金象嵌になっていることでも分かります。達磨像の上の文句は、聖徳太子大和国北葛城郡王寺付近の片岡山に、遊行したとき、路傍に飢えで倒れ伏したものがいました。太子はそれに食と衣を与えて去りました。その後、餓死していることが分かったので、墓を建ててやりました。太子が、あれは凡人ではない。真人つまり真の道を体得した人に違いない、と言ったので、墓を改葬すべく発掘したところ、遺骨は消え失せ、戴いた衣服だけ、棺の上に載せてありました。

こんな伝説から、あれは達磨大師だったとか、文殊菩薩の化身だったとか、付会の説が流布されるようになりました。この脇差に彫った文句は、前説つまり達磨大師説によったもので、文字の下書きは県印の僧がしたことになります。これの読み方について、「錯ッテ臓雪ヲ凌イデ片岡ヲ辞ス。高峻嶮タル帰心、太刀ヲ得タリ」、または第一節は同じで、第二節を「高ニ帰心シ太刀ヲ得タリ」、としたものがあります。しかし、両者とも末尾にある「山」の字を見落としています。なお、「高」と「陰」と「帰心」との間が、わざと離してあります。つまり「高険」と続けて読まないように、配慮されているように見えます。すると、読み方はおのずから違ってきます。 朧雪とは、聖徳太子の遊行が十二月一日だったので、十二月降る雪のことです。「帰心」というのは、達磨大師の遺骨が消え失せていたのを、インドに帰りたい心があったから、と解釈したものです。「太刀」とあるが、長さから見て、この脇差を指したものではないことになります。「太刀」は大刀の環の略とみるべきです。大刀の環は還、つまり還ルの隠語として広く遣われています。したがって「太刀ヲ得ルノ山」は、インドに還ることのできた山、つまり片岡山を意味することになります。

参考文献:日本刀大百科事典