日本刀の世界 ~日本の様式美~

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【刀剣紹介】蜈蚣切り

蜈蚣切り

俵藤太秀郷こと藤原秀郷が蜈蚣(百足)を切った、という伝説のある太刀です。琵琶湖にすむ竜神から、江州野洲郡の三上山、または滋賀郡の比良山にすむ蜈蚣に、夜な夜な悩まされるので、退治してくれ、と頼まれました。承諾して、竜神のいる湖底の竜宮に行き、襲ってきた、蜈蚣を得意の強弓で射止めました。その謝礼としてもらったのが、この太刀であるといいます。しかし、これは『古事談』にある粟津冠者の話を、換骨奪胎したものと言われています。なお、蜈蚣切りにも、同名異物が何振りかあります。

1.浜田家伝来

秀郷の後裔・田原太郎景信が、応永(一三九四)年中、下野から伊勢国三重郡柴田郷赤堀(三重県四日市市内)に来住、長男・景宗を同郡杖部郷羽津(四日市市内)、次男・季宗を赤堀、三男・忠秀を杖部郷浜田(四日市市内)に分封しました。

連歌師の宗牧は天文十三年(一五四四)十一月晦日、浜田に浜田出羽守光義を訪れ、蜈蚣切りを拝見しました。

浜田家では毎月朔日に、同族のものをよび、三日間潔斎したのち、蜈蚣切りにお供物をし、三献の儀式を厳かに行っていました。宗牧も未明におきて読経し、拝見の日に備えました。その日になって拝見すると、太刀箱には注連縄が張ってあり、太刀は錦など、七重の袋に入っていました。光義が再拝して太刀を抜きました。長さは二尺七寸(約八一・八センチ)ぐらい、手入れがよくされ、光り鮮やかでした。柄はいわゆる共柄で、毛抜形になり、銀の鍔がついていました。昔、相手が鍔に切りつけた痕が、かすかに残っていたといいます。

その後、永禄十年(一五六七)、秀郷の後裔たちは、国守・北畠家のため領地を没収され、衰退の淵に沈みました。そのためであろう、この太刀も、伊勢の外宮の御師・深井平太夫家に寄進されました。江戸期になると、八代将軍吉宗はこれを江戸に取りよせ、一覧後、本阿弥家に研がせ、鑑定させたところ、無銘ながら、豊前神息の作と極められました。そして、新しい白鞘に納めて、深井家に返しました。

幕末になると、神宮の社家・足代勝太夫が荒木田・度会の両神主と相談し、寛政十年(一七九八)十二月、外宮の豊宮崎文庫に寄付させました。同文庫は明治十一年焼失したが、この太刀は無事だったので、明治四十四年、神苑会が譲りうけ、神宮司庁に献納しました。それで同庁の徴古館所蔵となりました。昭和二十四年、重要文化財に指定されました。

刃長二尺三寸四分(約七〇・九センチ)、反りは浅いが、鎺元でぐっと反り、「へ」の字型になる。鍋幅が広く、錦筋は極めて低い。丸棟。地鉄は板目肌流れ、荒れ気味で、地沸えの厚くついた部分もある。刃文は直刃ほつれに小乱れや二重刃まじる。鋩子はない。 柄はいわゆる毛抜き型の共柄で、表裏に唐草文様のある銀の薄板を貼りつけ、さらに棟と双方および毛抜型の周りには、銀無垢の覆輪をかけてある。毛抜形の覆輪には矢の当たった痕がある。鞘は現在、下に巻いてあった麻布だけが残り、金具も足金物と責め金だけである。一の足と渡り巻きは、足利末期に補足したものという。

2.神息太刀

『集古十種』に、同じく伊勢神宮蔵として掲載されているものです。鞘書の表に、「奉献神息太刀一腰為諸願成就」、裏に「明和二年乙西四月吉日 浜地重郎兵衛重興」、と誌されています。中心に、「此長太刀俵藤太秀娜蚣切也 作者神息 然而寬治之比源朝臣口秀 豐州土佐井原合戰之刻 分取口高名而 大将軍預御感也 本銘如此 右之寬正摺上如前 亦銘打口畢」、と切りつけてあります。寛治(一〇八七)といえば、秀郷より五、六代あとになります。すると、「口秀」は大友親秀でしょう。土佐井とは現在の福岡県築上郡大平村土佐井です。

本刀は刃長二尺五寸五分(約七七・三センチ)、冠落としの、いわゆる薙刀直しで、寛正(一四六〇)年間に磨り上げたことになっています。しかし、秀郷の時代に、こんな冠落としの剣形はなかったから、これは後世の付会でなければなりません。

3.宝厳寺

滋賀県東浅井郡びわ町早崎の竹生島宝厳寺伝来の毛抜形の太刀です。藤原秀郷佩用との伝説があります。

刃長二尺二寸一分五厘(約六七・一センチ) 無銘。重要文化財

参考文献:日本刀大百科事典