日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【刀剣紹介】凌藤四郎

凌藤四郎

享保名物帳』焼失之部所載、粟田口吉光の短刀です。鎬藤四郎とも書きます。もと阿波の細川家伝来でした。それを織田信長の臣・佐久間信盛が入手、それを信長へ 献上しました。天正九年(一五八一)七月二十七日、信長は三男信孝に与えました。その後信孝はこれを兄の信雄へ贈りました。信孝は伊勢の神戸家、信雄も伊勢の北畠家を一時継いでいたので、初め伊勢藤四郎と呼ばれていました。

信雄はこれを小田原城主・北条氏直に贈りました。黒田如水が小田原落城後、氏直より五百貫で買い、関白秀次へ献上しました。秀次が文禄四年(一五九五)七月十五日自殺のとき、不破万作がこれを拝領し、これで切腹しました。豊臣秀吉がそれを召し上げていたとみえ、秀吉の遺物として、伊達政宗へ贈られました。 政宗はこれを大いに秘蔵し、毎年元旦にだけ差すことにしていました。将軍家光がかつて内藤外記を通じて、これを所望したときも、太閤の形見だから、と言って拒絶したほどでした。しかし、晩年になって嗣子・忠宗を召し、余の死後これを将軍に献上し、その代わりに、今まで許可にならなかった仙台城の二の丸増築を願い出てみよ。きっと許可されるだろう、と予言しました。

忠宗はその言に従い、寛永十三年(一六三六)七月二十一日、父の遺物として本刀を献上したところ、程なく二の丸増築の許可がおりました。家光は慶安三年(一六五〇)九月二十八日、世子・家綱の住む西の丸が落成した祝いに、これを家綱に与えました。明暦三年(一六五七)正月、江戸城炎上により惜しくも焼失しました。

しかし、その面影は、本阿弥光心・光徳・光温らの採った刀絵図によって窺うことができます。

刃長八寸八分(約二四・五センチ)、差し裏は平造りであるが、表が菖蒲造りで、鎬があるため、鎬藤四郎という異名のついたことが分かる。刃文は広直辺で、鋩子は小丸、返りはかなり深い。中心は目釘孔二個、「吉光」と二字在銘。

享保名物帳』所載以外に、もう一振り鎬藤四郎があった。凌藤四郎とも書く。やはり鎬のある菖蒲造り、「吉光」と二字在銘。目釘孔も二個あるが、元孔が瓢箪形になっている点と、刃長が九寸九分(約三〇・三センチ)になっている点が異なる。

参考文献:日本刀大百科事典