日本刀の世界 ~日本の様式美~

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【刀剣紹介】後藤藤四郎

後藤藤四郎

享保名物帳』所載、粟田口吉光の短刀です。江戸幕府の金座・後藤庄三郎光次旧蔵といいますが、後藤庄右衛門旧蔵という異論もあります。元和(一六一五)の初めごろか、本阿弥家に代付けにきたとき、当主の光室は、表の切先の刃が焼き崩れている、といって代付けを低くしようとしましたが、父の光徳が賑やかでいいと褒めたので、金三百枚に決まったといいます。しかし、七千貫という異説もあります。後藤家からの幕府の老中・土井利勝の許に移った時期は明らかではありませんが、三代将軍家光が土井邸に臨んだ時、金森正宗などを拝領したお返しに、本刀と備前長光の太刀・筑前左文字の刀などを献上しました。それを寛永五年(一六二八)九月二日とする説は誤りで、寛永六年(一六二九)八月二十八日が正しいです。

その時のお成りは利勝が寛永三年(一六二六)九月、将軍から拝領した油屋肩衝の茶入れの疲労のため、という名目でした。事実、その時はそれで茶の供応(もてなすこと)をしています。尾州徳川家の世子・光友に、将軍家光の息女・千代姫が入輿し、寛永十六年(一六三九)九月二十八日、家光へ挨拶へいったときに、本刀と五月雨郷の刀を将軍から拝領しました。

尾州家の附家老・成瀬正勝の嫡子・正幸が江戸勤めをしていた元禄(一六八八)の末、幕府の老中から木曽の御料林(皇室所有の森林)を幕府に献上し、かつ江戸出府の手土産に後藤藤四郎を将軍に献上するよう、内示がありました。正幸は千代姫様の思召しも測りがたいし、そんなことなら藩主も出府しないだろう、と断りました。それを聞いた正勝は、わしも安心して冥土へいける、と喜んだといいます。将軍へ献上せずにすんだので以後、尾州家に伝来しました。現在は国宝に指定されています。

刃長は九寸一分五厘(約二七・七センチ)で、重ね二分五厘(約〇・八センチ)で平造り。小板目つみ地沸えのついた地鉄に、直刃調の浅い五の目乱れをやく。鋩子は表裏とも小丸だが、表は沸え崩れる。中心は目釘孔四個。「吉光」と二字銘。

参考文献:日本刀大百科事典

写真:刀剣名物帳「後藤藤四郎」

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