【刀剣紹介】風雷神虎徹
風雷神虎徹
風神と雷神の彫物のある長曽祢虎徹の脇差です。明治中期、東京浅草の北岡文兵衛所蔵でした。それから西垣四郎作・松平頼平子爵を経て、高橋箒庵入手しました。それを犬養木堂に贈りました。昭和十三年犬養健の名義で、重要美術品認定されました。戦後アメリカへ持ち去られたが、現在は日本に里帰りしています。
刃長一尺六寸一分(約四八・八センチ)、本造り、大切先。鎺もとの樋のなかに、差し表は風神、裏は雷神を浮き彫りにする。その上に、さらに棒樋と添え樋をかく。地鉄は小板目肌に地沸えつく。刃文は直刃崩れ。鋩子は直に小丸。中心はうぶで、「長曽祢興里彫物同作」、と最晩年の銘がある。拵えは犬養木堂が付けたもので、金具は四分一摺り剥がし、革柄で、鞘は藍飲黒塗りの研ぎ出しになっている。
参考文献:日本刀大百科事典
【刀剣紹介】二筋樋正宗
二筋樋正宗
『享保名物帳』焼失之部所載、相州正宗極めの短刀です。もと山名弾正所持といいます。山名家は山陰の豪族で、五代宗全のごときは、かの有名な応仁の乱の総大将でさえありました。山名家は初代・時氏を始め、弾正少弼を名乗った人が多いから、「山名弾正」だけでは、何代目か不明です。徳川将軍家にいつ入ったか、不明であるが、焼け身になったのは、明暦三年(一六五七)、江戸城焼失の時であろうから、それ以前にすでに将軍家の所蔵になっていたことになります。
『享保名物帳』によれば、刃長は八寸四分五厘(約二五・六センチ)。ただし九寸一分(約二七・五七センチ)とする異説もある。折紙の代金は二百枚とされているが、三百枚とする説もある。異名は表裏に二筋樋をかいてあったので、「二筋樋正宗」と呼ぶことになった。刃文は彎れ刃だった。
参考文献:日本刀大百科事典
【刀剣紹介】福島兼光
福島兼光
『享保名物帳』追加之部所載、備前長船兼光作の太刀です。福島正則が広島城主だったころ、城下の本国寺(日蓮宗)の住持を処罰しました。その後、本刀が同寺にあることが分かり、正則が没収し、自分の佩刀にしたもの正則は元和元年(一六一五)城地を没収され、寛永元年(一六二四)死去しました。本刀が加賀の前田家に入った経緯は不明であるが、寛永十二年(一六三五)、前田家より本阿弥家に鑑定にきたので、金十五枚の折紙をつけました。本阿弥長根は江戸の前田邸において、文化九年(一八一二)三月、本刀のお手入れをしました。それで長根はこれを『享保名物帳』追加之部に入れました。明治十九年十一月、靖国神社大祭のとき遊就館に出品されました。戦後、前田家を出て、現在は重要文化財です。
刃長二尺五寸三分五厘(約七六・八センチ)、庵棟、佩き表に草の剣巻き竜、裏に梵字三個を彫り、その上に表裏とも棒樋と添え樋をかく。地鉄は小板目・小杢目まじりで、地沸えと映りがある。刃文は五の目丁子刃、匂い締まる。鋩子は乱れ込んで、小丸に返る。中心はうぶ。ただし目釘孔は五個。銘は佩き表に「備州長船住兼光」、裏に「観応元年八月日」と切る。
参考文献:日本刀大百科事典
【刀剣紹介】飛竜丸
飛竜丸
刀の異名です。京都の商人・瀬尾家伝来です。同家はもと土佐の住人で、長曽我部氏より拝領の飛竜丸という、伯耆安綱の太刀が伝来していました。明治初年、当主が道楽者で、飛竜丸も売り飛ばして、酒色に換えることを恐れたその母の未亡人は、時の京都府権知事の岩下方平(のちの子爵)が、亡夫と親交があったので、飛竜丸を岩下に預かってもらいました。
未亡人はそれから十年後、道楽息子は日清戦争で戦死したので、その妹の子が瀬尾家を継いで、当主になりました。その当主が岩下家に飛竜丸の返還を求めました。方平は明治三十三年にすでに死去していたが、もと家扶をしていた老人の話では、方平が死去後、樺山資紀大将に買い取ってもらったといいます。樺山大将に訊いたところ、東郷平八郎大将が日露戦争で大功をたてたので、それを祝して贈ったといいます。東郷大将に礼したところ、同姓の者にくれてしまった後でした。瀬尾家ではそれっきり、行方探しをあきらめました。
しかし、東郷大将と同姓の海軍中将・東郷吉太郎の手記によれば、東郷大将が樺山大将より贈られ、さらに吉太郎中将にくれたのは備中青江守次、二尺七寸(約八一・八センチ)ぐらいの大太刀で、切り込みの痕が二か所もありました。なお、訪ねてきたのは養子でなくて、年老いた未亡人で、その人の話では、そんな大太刀ではなかったといいます。すると、岩下に預けた飛竜丸ではなかったことになります。
参考文献:日本刀大百科事典