日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【刀剣紹介】大阪当麻

大阪当麻

『享保名物帳』所載の短刀です。織田信長の一族に織田駿河守忠政という武将がいました。のち中川八郎右衛門尉重政と改名したのは中川家の養子になったため、ともいいますが明らかになっていません。江州野州群にあった領地のことで柴田勝家と争い、勝家が派遣した代官を殺害したため、信長から改易・追放されました。それで剃髪して土玄と称し、徳川家康に身を寄せていましたが、一年後、信長から召し帰されました。大阪当麻はもとこの人の愛蔵でしたが、その子の清六光重に譲りました。光重は前田利家の女・蕭姫を娶っていたため、信長の死後、前田家にきて仕えました。七尾城を守っていましたが茶道に凝り、白修築の役を怠ったので天正十七年(一五八九)に能州津向に蟄居を命じられました。それで前田家を去り、豊臣秀吉の御伽衆となっていましたが、のち許されて前田家に復帰し、累進して知行二万三千石の越中増山城代となりました。慶長十六年(一六一一)二月に隠居して巨海斎宗伴と号しました。藩主利長は天正(一五七三)のころ、この宗伴から大阪当麻を百貫で買い上げ、秀吉に献上しました。それで『豊臣家御腰物帳』に「当麻 八寸九分 肥前進上」と注記してある。したがって当時はまだ「大阪当麻」という刀号はついていません。
のち豊臣秀頼から大野治長が拝領していましたが、治長は大阪落城のさい秀頼に殉じたので本刀は行方不明になっていました。それを元和六年(一六二〇)本阿弥光瑳が発見してきたので、将軍秀忠が召し上げました。秀忠が寛永九年(一六三二)正月薨去すると二月七日、その遺物として備前岡山城・池田宮内少輔忠雄に贈られました。その後、同家に伝来され『享保名物帳』にも同家蔵として出ていますが「加賀守殿の御脇差か」とし刀号も「鵜首当麻」とし「追記之部」に掲げた『名物帳』異本もあります。なお、所蔵者を松平相模守とした異本もあります。池田吉奉が右衛門督を相模守に改めたのは、享保十四年(一七二九)閏九月二十三日、つまり『享保名物帳』編集後であるため、編集後に追記したものが、いつのころか、本文のほうに挿入されたのでしょう。
本刀は現在、行方不明ですが『享保名物帳』によれば七千貫の折紙付きで、刃長は八寸八分(約二六・七センチ)、鵜の首造りで、はばきもとに薙刀樋と添え樋があった。刃文は直刃で鋩子は尖り、返りは長かった。中心はうぶ、鑢目は横、無銘だった。

参考文献:日本刀大百科事典
写真:刀剣名物帳「大阪当麻」

f:id:seiya3939:20171026150919j:plain