【刀剣紹介】骨喰み
骨喰み
古名刀の異名です。骨食・骨塚・骨喰丸・骨噛みとも書きます。骨喰みの語源については、戯れに切るまねをしても、相手の骨が砕けてしまうからとも、相手が骨にしみるように感じるからとも、刀で切られると、骨を縫い綴ったように痛みを訴えるからとも、あるいは「骨噛み」という別称からみて、これで切られると、骨を噛み砕かれるような痛みを覚えるからとも考えられます。
1.源三位頼政の骨食
頼政が退治に行くとき、郎党の猪早太には、「骨食といふ太刀を、ふところにささせたり」といいます。太刀を懐にさすことはできないから、太刀は小刀の誤写のはずです。寛文(一六六一)のころ、頼政の子孫である遠州浜松城主・太田資宗の家に、伝来していました。それは刃長五寸八分(約一七・六センチ)、銘に「国吉」とありました。資宗の兄・正重の子孫である水戸家の重臣・太田丹後守家にも、骨食と称する短刀がありました。これと資宗所持と同じかどうかは不明です。
なお、同じく頼政の遠孫で、千石取りの旗本だった高田斧太郎家にも、猪早太が祷を刺殺した、という短刀がありました。
刃長は鎺より上七寸(約二一・二センチ)ぐらい、平造りで、差し表に不動明王、裏の樋のなかに、八幡大菩薩の文字が浮き彫りになり、その下に蓮華が毛彫りになっていた。刃文は直刃。
無銘ながら相当の名刀だったようであるが、天保十一年(一八四〇)十月四日の夜、頼政の太刀と伝称するものとともに、盗賊に盗まれてしまったといいます。
2.三池作の骨食
源氏重代で、三池光世の作とも、三池利延の作ともいい、薙刀でした。
3.奥州鬼王丸作の骨喰
太刀で、骨喰丸ともいいます。
4.藤六左近貞国作の骨喰
吉野宮にあって、末細く鎺が短いとあるから、短刀でしょう。
参考文献:日本刀大百科事典