日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【刀剣紹介】振分髪

振分髪

1.織田信長の差料

相州正宗の作、大磨り上げ無銘であるため、細川幽斎が、「くらべこし振分髪もかたすぎぬ 君ならずして誰かあぐべき」、という在原業平の歌から採って、名付けたものです。幕末には周防国岩国の吉川家に伝来していました。

刃長二尺九分(約六三・三センチ)、反り四分(約一・二センチ)。拵えは、白鮫の柄に、後藤祐乗作の赤銅の竜の目貫と、赤銅の縁をつけ、黒革で角頭を掛け巻きにする。切羽・鎺ともに金無場。鍔は鉄の無地。鞘は黒漆を厚くかける。笄・栗形は後藤祐乗の作で剣巻き竜となる。

2.伊達政宗の差料

奥州仙台藩主・伊達政宗に向かい、ある大名が、差料の脇差はさだめし相州正宗の作でごさろうな、と尋ねたところ、いかにも左様、と答えたが、実は正宗ではありませんでした。帰宅すると政宗は、次に見せてくれ、と言われたら嘘がばれるから、正宗の刀を磨り上げ、脇差にせよ、と命じました。家臣も刀鍛治も、諫止したが、聞き入れないので、止むをえず磨り上げました。その鍛治が在原業平の歌の意を採って、「振分髪」と命名した、という話があります。

しかし、伊達家の『御腰物方本帳』などを見ても、これはただ「正宗御脇指」とあるだけで、「振分髪」という異名は付いていません。そして「御代々御指之部」の最後に登録されています。これは政宗と関係のないことを示すものです。由来は一切書いてなくて、わずかに「竜ヶ崎上」とあります。竜ヶ崎とは現在の茨城県竜ヶ崎市のことで、ここに伊達家の飛び地が一万石あって、陣屋が置かれていました。「竜ヶ崎上」とは、その陣屋から、おそらくそこの代官が献上したものでしょう。

これには、安永七年(一七七八)五月三日付け、代金三百枚の折紙がついて います。おそらくそのころ献上したものでしょう。それで寛政元年(一七八九)五月、御刀奉行で調べた『剣槍秘録』には、記載されています。明治維新後、伊達の本家から、分家の伊達男爵家へ贈られました。大正九年ごろ、時の某大臣が、仙台城下の三十間堀あたりの質屋に入れたという戦後は細川貞松氏の所有となっています。

刃長一尺六寸八分(約五〇・九センチ)、表裏に棒樋をかく。地鉄は板目肌で、地沸えもつかず、映りも見えない。刃文は腰開きの五の目丁子乱れで、わずかに掃きかけを見るが、室町期の備前物らしい出来である。中心は大磨り上げ無銘で、目釘孔五個。銹色より見て、磨り上げの時期は幕末、折紙発行のころであろう。なお、切り取った中心先が現存し、「正宗」と偽銘があるという。

拵えはなるほど見事である。鎺や切羽は金無垢で、鎺には七子地、三階松の高彫りの上に、伊達家の引き両の紋が据えられている。縁頭は赤銅七子地に金玉縁をつけ、芦に鷹鷲の高彫り、金銀色絵の図となる。目貫は金無垢の三階松。柄は白鮫のうえを黒糸で巻く。鍔は赤銅七子地に、笹と雀を高彫り金色絵とする。小柄・笄は赤銅七子地に、唐松の高彫り金色絵、裏は金の割り継ぎ。鞘は呂色。小ガタナが文化(一八〇四)ごろの、藩工・騰雲子包寿の作になっているのは、拵えの製作が、そのころだったことを窺わせる。

参考文献:日本刀大百科事典