日本刀の世界 ~日本の様式美~

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【偉人の刀剣】宮本武蔵の刀

宮本武蔵の刀

天流の祖・宮本武蔵所持の刀です。武蔵が正保二年(一六四五)五月十九日病没すると、二天流二世を継いだ寺尾信行は、武蔵差料の大小を、武蔵の養子で、豊前小倉藩重臣宮本伊織に送ったところ、小刀だけを留めおき、大刀は信行に返してきました。明治になって、寺尾運記はこれを戸下温泉主人・長野菜に譲りました。大正になって、長野家の売立のさい、桑原征平が愛人・千菊(芸者)の名で落札しました。その後、甲斐軍蔵氏が入手し、現在に至ります。

刀身は「和泉守藤原兼重」と在銘。刃長二尺七寸(約八一・八センチ)。刃文は広直刀。拵えは、いわゆる武蔵拵え。武蔵は臨終にさいし形見として、兼重の大刀を長岡(松井)佐渡へ、小刀を播州の郷里に送った、という説は誤り。

武蔵は、のちに武蔵の墓碑銘を書いた泰勝寺住職・春山和尚にも、一刀を寄進していました。同寺は明治四年廃寺になったので、仙庵和尚はこれを同五年二月、子飼(熊本市内)の細川興昌氏(のち男爵)に贈りました。同家ではその返礼として、備前長船勝光の半太刀を届けました。武蔵の旧蔵刀は、刃長二尺二寸(約六六・七センチ)ほど、「大和国国宗 大宝二年八月日」、と在銘でした。すると、偽銘だったことになります。 武蔵が吉岡伝七郎らを斬った、という刀が二振りあります。一つは細川藩の重臣・沢村大学へ、遺物として自作の鞍とともに贈られたもので、伯耆安綱作、刃長三尺八分(約九三・三センチ)、糸巻き太刀拵えつきです。のち津村家蔵、戦後は行方不明です。そのほかに、「了戒」と二字銘の太刀があります。これは沢村大学の養子・友好が、武蔵の門人だったので、臨終に際し自作の鞍とともに贈ったというものです。大正六、七年ごろ、それを細川家の家扶・高島義恭が入手しました。池辺義象がその由来を箱書きしています。

刃長二尺八寸一分(約八五・一センチ)、地鉄は小杢目肌に柾目まじり、刃文は直刃に、小五の目足入り、鋩子焼き詰め、うぶ中心、目釘孔二個 。以上のほかに、「兼久」と二字銘の刀や、無銘で「吉岡斬り」と称する刀も現存する。

享保名物帳』に載っている「武蔵正宗」は、宮本武蔵所持という説もあるが、これには異説が多いです。 河内守永国がまだ未熟なころ、自作刀の切れ味を見ようと辻斬りをしました。相手が宮本武蔵だったので、見事失敗しました。それが縁で武蔵の愛顧をうけるようになった、という話は熊本に、すでに幕末にはあったようです。しかし、永国の年齢からいって、それはあり得ないことです。なお、永国が試し斬りしようとした相手は、寺尾信行の六男・郷右衛門勝行だった、という説があります。しかし、これも両人の年齢差からみて、あり得ないことで、後人の創作でなければなりません。

俗説としては、秋山十郎教定という強盗の頭を斬ったのは志津三郎兼氏の太刀、官女に化けた悪狐からもらったのは、郷義弘の短刀、佐々木厳柳との試合で、右手に持ったのは兼氏の大刀、左手に持ったのは相州貞宗の小刀などであるが、もちろん創作です。あるいはその時の木刀は、大が二尺五寸(約七五・八センチ)、小が一尺八寸(約五四・五センチ)だった、との説があるが、それも信じがたいです。

参考文献:日本刀大百科事典