日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【刀剣紹介】二つ銘則宗

二つ銘則宗

享保名物帳』の原本にはなく、幕末になり本阿弥長根が追加したものです。足利将軍家の重宝でした。明徳の乱のとき、つまり明徳二年(一三九一)十二月晦日、将軍義満は、篠作りという御帯刀に、二つ銘という太刀を添えて佩き、薬研藤四郎という腰刀をさして出陣したというが、篠作りとは、二つ銘の拵えからの名称で、二つ銘と異名同物です。足利義尚は文明十一年(一四七九)正月十七日、的始めのさい、この太刀を大館治部少輔に持たせて臨場しました。

足利家の最後の将軍義昭が、二つ銘とともに、鬼丸・大伝多など三刀を、織田信長に贈りました。それがさらに豊臣秀吉に伝わった、という説があるが、それは誤りで、秀吉に直接渡ったものです。天正十六年(一五八八)、秀吉から扶持一万石を給せられたさい、出家して幕府再興の野心のないことを表明しているので、そのさい秀吉に贈ったのでしょう。

それが山城の愛宕神社の宝物になったのは、秀吉が朝鮮出兵の勝利を同社に祈願したかいあって、文禄(一五九二)の役が勝利に終わったので、その御礼として寄進したからです。正保二年(一六四五)正月二十三日、愛宕神社が炎上したさい、本刀が行方不明になったが、二十五日、百姓たちが、丹波国桑田郡山国郷山田村鳥居の原に棄ててありました、と言って、二つ銘の入った刀箱を持ってきてくれました。それを機会に外箱を作って、厳重に封印しました。

享保四年(一七一九)十月、将軍吉宗が本阿弥光忠・光通を呼び出し、二つ銘の作者を尋ねさせました。両人とも、作者は知らないが、三条宗近ではあるまいか、と推測を申し上げました。吉宗はそれに満足せず、愛宕神社に照会させたところ、備前則宗の作、という回答でした。 翌五年(一七二〇)九月、京都所司代・松平伊賀守忠間は、愛宕神社に命じて、二つ銘を持参させ、本阿弥光盛に見せたが、刀身が銹ついて抜けませんでした。改めて鞘師を連れて行ったところ、ようやく抜けました。刀身は銹もなったので、その後、絵師を呼んで全身の絵図を描かせ、光盛が銘を書き入れました。

「備」の字は朽ちて見えないので、「前国則宗」とだけ書き入れました。所司代では拵えを模造させ、中身の代わりの木形には、光盛に命じ刃文を書き入れさせました。そして将軍へ献上しました。刀身はそのさい光盛に命じ、研ぎ直させました。以後、同社に神宝として襲蔵、戦後、重要文化財に指定されました。

刃長は二尺七寸(約八一・八センチ) とも、二尺六寸八分(約八一・二センチ)ともいうが、現在は二尺六寸四分五厘(約八〇・一センチ)、踏張りあって、反りの高い本造り。地鉄は板目肌、刃文は焼き落としで始まり、その上は小乱れ、小丁子に逆足まじり、先は直刃に足入りとなる。鋩子は小丸尖る。中心はうぶ、目釘孔一個。銘は「備」の字朽ちて不明、「前国則宗」と残る。「前」の字も素直に「前」とは読めないので、昔は□国と則宗の合作と推測し、二つ銘と呼んだ。 これには革包みの太刀拵えがつく。柄・鍔・鞘とも青漆革で包む。鍔は五枚の練り革鍔。縁頭・甲金・猿手は赤銅、大切羽は素銅で、いずれも笹の毛彫りを施す。そのため、愛宕神社では本刀を、笹作りの太刀と呼んでいた。刀箱も笹の時絵にしてあった。なお、目貫が丸に二つ引きとなっている。これは足利氏の家紋である。

参考文献:日本刀大百科事典

写真:刀剣名物帳「二つ銘則宗

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