日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【刀剣紹介】清水藤四郎

清水藤四郎

享保名物帳』所載、粟田口吉光の短刀です。本刀の出所について『名物帳』には「安芸国しみずより出る」または「芸州清水より出ル」とありますが、芸州に清水という著名な地名はありません。清水家のことでしょう。芸州藩の清水家は天正十年(一五八二)に、高松城の水攻めで、美名を残した清水宗治の子孫です。宗治が切腹したとき、嗣子・景治はわずか十五歳でした。それから毛利輝元が入手しました。足利将軍旧蔵という説は誤伝です。

輝元は豊臣秀吉と初対面のとき、本刀と親身国行の刀を献上しました。秀吉はこの両刀を事ある時には差していました。それは、夢で切ったり突いたりしても、うまくいかないものだが、親身国行と清水藤四郎ならば、うまくいく、という夢判断からでした。秀吉他界後、豊国神社へ奉納されました。しかし、本阿弥光徳の預かりになっていました。そのことを伝長老が家康に告げたので、家康が本刀を召し上げ、尾州義直へ与えました。

義直は本刀を寛永二年(一六二五)三月八日、秀忠が来邸したとき献上しました。同年十月二日、細川忠興が帰国の挨拶にきたとき、本刀を下賜しました。それは、豊臣秀吉の前で忠興が、清水藤四郎を差し、利久の「尻膨れ」の茶入れで茶の湯を催したら、生涯の至楽だ、と言ったのを覚えていたから、ということです。ただし、それは寛永二年(一六二五)正月のことで、帰国ではなく出府の挨拶だったとする異説もありますその後の移動については二説あります。

『名物帳』には寛文(一六六一)のころから、京都の町人・辻次郎右衛門方に所蔵、としています。忠興の嗣子・忠利は寛永四年(一六二七)に、忠興秘蔵の「有明」の茶入れを金千六百枚(三千枚とも)で売り、領内の窮民を救ったことはありますが、清水藤四郎を売ったという記録はありません。『名物帳』の記載は、幕末になって本阿弥長根が追記したものであるため、寛文という年代には疑いを抱きます。他の一説として、本阿弥長根追記の『名物帳』には「細川伊豆守殿に元有之」とありますが『名物帳』の原本には「細川伊豆守」とあって、享保(一七一六)のころ、同家所蔵と明記しています。『細川忠興公年譜』にも「細川大和守ニ有之」とあります。これも『忠興年譜』の編纂された延享(一七四四)のころ、同家にあったことを確認したものです。細川伊豆守は忠興の四男・立孝の曽孫で、肥後宇土城主、細川大和守はその嗣子・興里です。すると、おそらく忠興の形見分けのさい、清水藤四郎は四男・中務大輔立孝がもらったのでしょう。そして延享(一七四四)以降、わずか三万石の小藩だったので財産の窮之にたえかね、売却したのを、京都の町人・辻次郎右衛門が買い、その後、沢了員をへて、亀屋源太郎が入手したのを、将軍家斉が召し上げました。しかし『名物帳』の追記によれば、文化(一八〇四)の初め、清水家で買いあげ、それを将軍家に献上していたところ、将軍慶喜は再び実弟である清水(徳川)昭武に与えました。昭武は明治元年、生家水戸家を継いだので、本刀は水戸家蔵になりました。のち黒田清隆が愛蔵していましたが、その後のことは不明です。

刃長は七寸五分(約二二・七センチ)で、重ね三分(約〇・九センチ)余、表裏に護摩箸を彫る。刃文直刃、鋩子焼き詰め。目釘孔二つ、「吉光」と在銘。拵えは細川忠興の好みによろもので、大きな鐔がついていた。刀袋は青地錦で「清水藤四郎」と織り出してあった。折紙は三千貫ともいうが、百五十枚が正しい。

参考文献:日本刀大百科事典

写真:刀剣名物帳「清水藤四郎」

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