日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【刀剣紹介】江戸親身藤四郎

日本の美、日本刀

まだ腰に刀を差していた時代、日本刀は自分の身を守るためだけではなく拵えの装いや粋な刀装具を周囲に見せ、その刀を差す武士の品格を表していました。また、現代のように自身を彩るものは多くなく、腰に差す刀剣でその人のお洒落さをも表していたといいます。そんな千差万別ある日本刀を紹介していきます。

江戸親身藤四郎

享保名物帳』焼失之部所載の短刀です。刀身が親身のように健全であるため、同じ名物の「大阪親身藤四郎」に準じて命名したものです。もと足利将軍家伝来でしたが、将軍義輝が大阪の石山本願寺から借金したお礼として本刀を本願寺に贈りました。本願寺は本刀を本願寺と同じく日野家の支流である烏丸家に贈りました。本阿弥光徳は同家にあるころ押形をとったとみえ『本阿弥光徳刀絵図』寿斎本には「からす丸殿」と注記してあります。なお、刀号も当時はまだ「あらミ藤四郎」だけで「江戸」はついていませんでした。光徳から聞いたのであろう木村重成の父ともいわれる淀城主・木村常陸介が烏丸家から譲り受けました。それは堺の町人の斡旋で代金は七十枚だったともいいます。

常陸介はそれを豊臣秀吉に献上しました。関ヶ原合戦の戦後処理のため大阪の西城にきていた徳川秀忠に慶長六年(一六〇一)二月七日に秀頼は本刀を贈りました。しかし秀忠は間もなく本刀と別所貞宗前田利長に与えました。秀忠が元和三年(一六一七)五月十三日に前田利常の邸に臨んだとき、平野藤四郎などを与えたため、その返礼として利常は本刀を将軍に献上し、正保二年(一六四五)四月二十三日に将軍家光の世子・家綱が元服したとき、家光から本刀を家綱に授けました。

明暦三年(一六五七)正月の振り袖火事で焼失しました。しかし、その後焼き直されたとみえ、刃文の格好の違う押形が『継平押形』に掲載されています。徳川家『御腰物台帳』をみると「焼直し御道具」十三振りのなかに吉光の短刀が入っています。これが江戸親身藤四郎でしょう。

刃長は九寸五分(約二八・八センチ)で、平造り、表裏に護摩箸を彫るが、差し表のほうが少し長くなっている。刃文は直刃。差し表のはばき本に、もとは五の目が一つあったが、焼き直したものにはそれがない。鋩子の形も違っている。中心には目釘孔二つあって、上のほうは金で埋めてあった。

参考文献:日本刀大百科事典

写真:刀剣名物帳「江戸親身藤四郎」

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