日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【偉人の刀剣】本多平八郎の刀

本多平八郎の刀

徳川家康の四天王のひとり、本多忠勝の刀です。天正十二年(一五八四)四月、長久手の戦のさい、織田信雄は忠勝の勇戦ぶりに感じ、法城寺の刀を与えました。同十四年(一五八六)四月、豊臣秀吉の妹・朝日姫と結婚した徳川家康が、祝儀の使者として忠勝を送ったところ、秀吉は喜んで貞宗の短刀を、忠勝に与えました。忠勝の持ち槍 は、「蜻蛉切り」の名で有名です。

忠勝の嫡孫・忠刻は、有名な千姫の夫であるが、父に先立ち、三十一歳で早死しました。その跡をついだ弟・政朝の子孫が、幕末まで三州岡崎城主でした。明治十五年、本多家では刀など伝来品を売りに出しました。東京の尾張屋新助が長持ちを買って帰り、よく見ると、下のほうに抽出しがついていました。それを引き出してみると、中に白鞘の長い刀が入っていました。真赤に錆びていたので、本阿弥平十郎に研ぎを頼みました。

平十郎が錆を落としてみると、佩き表に「備州長船住景光」と在銘、裏に「本多平八郎忠為所持之」、と金象嵌が入っていました。忠為とは忠刻の若いときの名前です。ところが、それを研ぎ上げない前に、つまり明治十五年七月十六日、平十郎が病死しました。それで養子の成善、のちの尋雅が研ぎ上げました。尾張屋はそれを岩崎家に納めました。現在も同家にあり、戦後、重要文化財になっています。

刃長二尺八寸五厘(約八五・〇センチ)、表裏に棒樋をかき流す。軟らか味のある小杢目肌に大肌がまじり、映り現れる。直刃調の刃文に、肩落ちの五の目や逆小乱れさまじる。中心は区送りして、目釘孔三個。

そのほか「篠剪り」と異名のついた了戒の刀も所持していました。

忠勝は青年時代、野太刀を遣っていました。それの鍔を、小田原の北条氏直の家臣・磯崎太郎左衛門広之が、天正三年(一五七五)九月入手しました。

直径四寸六分(約一三・九センチ)の丸で鉄地。車透しであるが、車輪が特に幅広で、そこに「うきよやいまわ満まるこっそりすく也」、の句が透しになっていた。この鍔は、広之の曽孫・六左衛門広長が、甲州代官・田嶋勘左衛門の娘養子となったので、以後、田嶋家に伝来、幕末に至った。

参考文献:日本刀大百科事典