【刀剣紹介】甲斐国郷
日本の美、日本刀
まだ腰に刀を差していた時代、日本刀は自分の身を守るためだけではなく拵えの装いや粋な刀装具を周囲に見せ、その刀を差す武士の品格を表していました。また、現代のように自身を彩るものは多くなく、腰に差す刀剣でその人のお洒落さをも表していたといいます。そんな千差万別ある日本刀を紹介していきます。
甲斐国郷
『享保名物帳』焼失之部所載の太刀です。甲斐郷ともいいます。武田信玄は郷義弘作、二尺九寸(約八七・九センチ)の大太刀を二尺七寸(約八一・八センチ)に磨りあげさせ、その旨を中心に彫りつけて佩用していました。その後さらに二尺一寸三分(約六四・五センチ)に磨り上げ、高田勝頼は最期まで帯びていました。寄せ手の滝川一益が本刀をぶん取り、稲田九蔵に持たせて、織田信長のもとに送付しました。本刀を信長は徳川家康に与えたとみえ、天正十二年(一五八四)、小牧山合戦の和議が整ったさい、家康は豊臣秀吉に贈っています。慶長五年(一六〇〇)八月、本阿弥又三郎が豊臣家の蔵刀を調査した記録にも「一 甲斐国かう 刀」と記載されています。豊臣秀頼は大坂冬の陣が終わると、翌春、本阿弥光甫に砥ぎ直させ、家康に贈りました。記録にはないが、明暦三年(一六五七)の大火で焼失したのでしょう『享保名物帳』には焼失之部に入れてあります。ただし、焼き直しもされず廃棄処分になったとみえ、明治二年の徳川家蔵刀目録にも見当たりません。
本阿弥光徳がとった押形をみると、鎬筋に細い樋をかぎ、中心に素剣が残っている。目釘孔一個。刃文は直刃で鋩子は小丸尖りで、返りが長い。
参考文献:日本刀大百科事典
写真:刀剣名物帳「甲斐国郷」