日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【刀剣紹介】島津正宗

島津正宗

享保名物帳』所載、相州正宗(無銘)の刀です。 もと薩州の島津家が所蔵していました。同家より徳川家康へ献上し、家康が紀州頼宣へ与えたものでしょう。同家より貞享元年 (一六八四)、本阿弥家へ鑑定を求めてきましたので、二百枚の折紙をつけました。 紀州藩主が隠居のとき、将軍へ献上した、という説は誤りで、元禄十年(一六九七)四月十一日、将軍綱吉が紀州邸へ行ったとき、藩主・光貞が将軍へ献上しました。元禄十五年(一七〇二)四月二十六日、将軍綱吉が前田邸へ臨んだとき、藩主・綱紀へ与えました。綱紀は享保八年(一七二三)五月に隠居すると、本刀を本阿弥家にやって、三百枚の折紙をつけさせ、八月二十二日、隠居の挨拶として将軍へ献上しました。皇妹・ 和宮の将軍家茂への降嫁が勅許になった時、孝明天皇へ献上、という説がありますが、明治二年調べの徳川家腰物台帳に依然、収載されているため、献上は誤説です。

刃長は二尺二寸七分(約六八・八センチ) とも、二尺二寸七分五厘(約六八・九センチ)とも、二尺三寸七分(約七一・八センチ)ともいう。戦後、島津正宗と称する刀があるが、『継平押形』所載の島津正宗と対比すると、刃文・鑑子・樋の掻き通しの状態・目釘孔の数や位置など、相違する点が多い。

参考文献:日本刀大百科事典

写真:刀剣名物帳「島津正宗」

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【刀剣紹介】小池正宗

小池正宗

享保名物帳』所載の脇差です。播州姫路城主・本多美濃守忠政が、京都小池通りの旅館で購入したため「小池正宗」と呼びます。忠政より三代目の中務大輔政長が逝去したとき、その遺物として延宝七年(一六七九)七月十二日、嗣子の平八郎忠国は本刀を将軍家綱に献上しました。将軍綱吉は天和元年(一六八一)十一月十六日、長男・徳松の髪置きの祝いに、本刀を授けました。徳松が幼死したあと、また将軍綱吉の許に返されました。将軍家斉は尊号事件で光格天皇の怒りをかったので、機嫌取りに天皇へは早川正宗を、後桜町上皇へは本刀を献上することにしました。御腰物方では動機が動機なだけに、御腰物台帳に何のため献上と書くべきか迷いました。それで上司の近藤吉左衛門に伺ったところ、近藤も困ってただ「御進献」とだけ書くよう命じました。進献の両刃は厳重に荷造りしたまま、寛政六年(一七九四)十一月十日、御目付役・成瀬吉右衛門へ渡されました。成瀬は本刀を護衛して、東海道を下っていきました。献上が決まると、幕府では本阿弥光一に命じて、差し表に「正宗」、裏に「本阿(花押)」と朱銘を入れさせました。白鞘にもただ「正宗」とだけ書かせました。しかし三千貫の折紙はつけてやり、現在も御物として伝来しています。

刃長は一尺二分五厘(約三一・〇センチ)で表裏に刀樋をかく。板目肌に沸えの厚くついた地鉄に、浅い彎れ乱れで、二重刃やほつれの多い刃文を焼く。中心は目釘孔二つ、朱銘が表裏にある。

参考文献:日本刀大百科事典

写真:刀剣名物帳「小池正宗」

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【刀剣紹介】宗瑞正宗

宗瑞正宗

享保名物帳』所載、相州正宗作の短刀です。もと織田信長の一族・小田井織田家に伝来しました。小田井大学が豊臣秀頼の小姓だった関係で豊臣家に献上しました。本阿弥光徳が相州行光と鑑定し「をたい行光」と鞘書きしました。「をたい」は小田井で大田井と書くは誤りです。毛利輝元入道宗瑞が本刀を拝領しました。宗瑞の嗣子・長門守秀就は松平忠直の妹と結婚、その間に生まれた娘は、忠直の嗣子・光長に嫁ぎました。そんな関係で、本刀はいつのころか松平家に贈られました。松平家から尾張徳川家に移っていたものを、元禄十一年(一六九八)三月十八日、将軍綱吉が尾張邸に臨んだとき、藩主・綱誠より将軍に献上しました。宝永二年(一七〇五)三月十八日、綱吉より家宣へ与えました。享保十年(一七二五)に、本阿弥家では従来、百五十枚の代付けだったのを、二百五十枚に格上げしました。

寛保元年(一七四一)八月十二日、家治が元服のとき、将軍家重より今まで脇差の拵えだったのを、小さ刀の拵えになおして、家治に与えました。三所物は後藤四郎兵衛の作で、赤銅色紙、葵紋三双、小柄は裏金哺みでした。明和三年(一七六六)、家斉が元服のとき、将軍家治より家斉へ与えました。爾来、徳川将軍家の重宝となっていましたが、明治二十年八月五日、侍従の山岡鉄斎の取り次ぎで、明治天皇へ献上しました。現在も皇室の御物になっています。

刃長は現在、八寸二分八厘(約二五・一センチ)しかなく、おそらく寛保元年(一七四一)、拵えを新調したとき、表裏の区際が染みていたので、区送りしたものであろう。平造り、真の棟。表に素剣、裏に腰樋と添え樋をかく。地鉄は大板目肌、刃文は表、浅い五の目乱れ、裏は大五の目乱れ、荒沸えつく。鋩子は火炎風で、返りは深い。中心はうぶ、区送り、目釘孔三個、無銘。

参考文献:日本刀大百科事典

写真:刀剣名物帳「宗瑞正宗」

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【刀剣紹介】大青江

大青江

享保名物帳』所載の刀です。越中富山の前田家所伝によれば、もと上杉謙信所持で上杉景勝から前田利家に贈ったものといいます。長すぎたので本阿弥光室に磨り上げさせ「貞次磨上之 本阿(花押)」と金象嵌を入れさせました。千貫の折紙がついたのも、この時でしょう。小松中納言、つまり前田利常は正保二年(一六四五)閏五月二日に、本刀を次男で越中百塚十万石の領主だった淡路守利次に与えました。利次はのち富山城に移り、富山前田家の祖になりました。光室の孫にあたる本阿弥光和は本家と相談すれば千四百貫になる、と言っていたがそのままでした。

享保名物帳』編集の頃は富山の前田家にありましたが、幕末には本家、つまり金沢の前田家に行っていたと見え、文化九年(一八一二)三月、本阿弥重郎左衛門が本家の刀のお手入れをしたときの記録に載っています。その後、また富山に返されたと見え、明治になると富山前田家の名義になっています。戦後、同家を出て、現在は重要文化財に指定されています。

刃長は二尺五寸六分(約七七・六センチ)で豪壮な刀で物打ちには切込みがある。地鉄は小板目肌、地沸えつき、澄肌まじる。刃文は彎れ心の広直刃に、逆乱れ・逆足まじる。中心は目釘孔二個、前田家にはもう一振り、これより三寸四分(約一〇・三センチ)ほど短い青江の刀があったので、これを『大青江』と名付けたものである。貞次でもこれは後の貞次という。

参考文献:日本刀大百科事典

写真:刀剣名物帳「大青江」

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【刀剣紹介】鍋島藤四郎

鍋島藤四郎

享保名物帳』所載、粟田口吉光作の短刀です。初め、肥前佐賀城主・鍋島直茂が所持していました。その子・信濃守勝茂のとき、埋忠家で採った粟田口吉光の短刀の押形に「なべしなの殿」と注記したものがあります。ただし、これは鍋島藤四郎ではありません。その後、因州鳥取城主・池田光仲の有に帰し、その嗣子・綱清が隠居御礼として、元禄十三年(一七〇〇)七月朔日、将軍綱吉へ献上しました。綱清の子・吉泰が献上した説は誤りです。

宝永二年(一七〇五)十一月六日、綱吉より家宣へ、享保元年(一七一六)八月二日、家重が元服のとき吉宗より家重へ、寛保元年(一七四一)八月十二日、家治元服のとき家重より家治へ、天明二年(一七八二)四月三日、家斉元服のとき家治より家斉へ、寛政九年(一七九七)三月朔日、家慶元服のとき家斉より家慶へ、文政十一年(一八二八)四月四日、家定元服のとき家慶より家定へ譲られました。折紙は三千貫だったものが、この時は五千貫になっていました。明治維新後も大徳川家に伝来し、昭和三十五年八月、東京国立博物館に一時寄託されていましたが、その後の所在は不明です。

刃長は七尺七寸(約二三・三センチ)で平造り、真の棟。地鉄は小杢目肌詰り、大肌まじる。刃文は直刃、中程より下半分には足繁く入る。鋩子は小丸で掃きかけ、地に食い下がる。中心は磨り上げ、目釘孔二つ。中心先に「吉光」と二字銘がある。

参考文献:日本刀大百科事典

写真:刀剣名物帳「鍋島藤四郎」

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【刀剣紹介】清水藤四郎

清水藤四郎

享保名物帳』所載、粟田口吉光の短刀です。本刀の出所について『名物帳』には「安芸国しみずより出る」または「芸州清水より出ル」とありますが、芸州に清水という著名な地名はありません。清水家のことでしょう。芸州藩の清水家は天正十年(一五八二)に、高松城の水攻めで、美名を残した清水宗治の子孫です。宗治が切腹したとき、嗣子・景治はわずか十五歳でした。それから毛利輝元が入手しました。足利将軍旧蔵という説は誤伝です。

輝元は豊臣秀吉と初対面のとき、本刀と親身国行の刀を献上しました。秀吉はこの両刀を事ある時には差していました。それは、夢で切ったり突いたりしても、うまくいかないものだが、親身国行と清水藤四郎ならば、うまくいく、という夢判断からでした。秀吉他界後、豊国神社へ奉納されました。しかし、本阿弥光徳の預かりになっていました。そのことを伝長老が家康に告げたので、家康が本刀を召し上げ、尾州義直へ与えました。

義直は本刀を寛永二年(一六二五)三月八日、秀忠が来邸したとき献上しました。同年十月二日、細川忠興が帰国の挨拶にきたとき、本刀を下賜しました。それは、豊臣秀吉の前で忠興が、清水藤四郎を差し、利久の「尻膨れ」の茶入れで茶の湯を催したら、生涯の至楽だ、と言ったのを覚えていたから、ということです。ただし、それは寛永二年(一六二五)正月のことで、帰国ではなく出府の挨拶だったとする異説もありますその後の移動については二説あります。

『名物帳』には寛文(一六六一)のころから、京都の町人・辻次郎右衛門方に所蔵、としています。忠興の嗣子・忠利は寛永四年(一六二七)に、忠興秘蔵の「有明」の茶入れを金千六百枚(三千枚とも)で売り、領内の窮民を救ったことはありますが、清水藤四郎を売ったという記録はありません。『名物帳』の記載は、幕末になって本阿弥長根が追記したものであるため、寛文という年代には疑いを抱きます。他の一説として、本阿弥長根追記の『名物帳』には「細川伊豆守殿に元有之」とありますが『名物帳』の原本には「細川伊豆守」とあって、享保(一七一六)のころ、同家所蔵と明記しています。『細川忠興公年譜』にも「細川大和守ニ有之」とあります。これも『忠興年譜』の編纂された延享(一七四四)のころ、同家にあったことを確認したものです。細川伊豆守は忠興の四男・立孝の曽孫で、肥後宇土城主、細川大和守はその嗣子・興里です。すると、おそらく忠興の形見分けのさい、清水藤四郎は四男・中務大輔立孝がもらったのでしょう。そして延享(一七四四)以降、わずか三万石の小藩だったので財産の窮之にたえかね、売却したのを、京都の町人・辻次郎右衛門が買い、その後、沢了員をへて、亀屋源太郎が入手したのを、将軍家斉が召し上げました。しかし『名物帳』の追記によれば、文化(一八〇四)の初め、清水家で買いあげ、それを将軍家に献上していたところ、将軍慶喜は再び実弟である清水(徳川)昭武に与えました。昭武は明治元年、生家水戸家を継いだので、本刀は水戸家蔵になりました。のち黒田清隆が愛蔵していましたが、その後のことは不明です。

刃長は七寸五分(約二二・七センチ)で、重ね三分(約〇・九センチ)余、表裏に護摩箸を彫る。刃文直刃、鋩子焼き詰め。目釘孔二つ、「吉光」と在銘。拵えは細川忠興の好みによろもので、大きな鐔がついていた。刀袋は青地錦で「清水藤四郎」と織り出してあった。折紙は三千貫ともいうが、百五十枚が正しい。

参考文献:日本刀大百科事典

写真:刀剣名物帳「清水藤四郎」

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【刀剣紹介】増田藤四郎

増田藤四郎

享保名物帳』所載、粟田口吉光の短刀です。もと京都の八幡にいる鶉の愛好家が持っていました。その知人が飼っている優秀な鶉と短刀を交換しました。知人の親類に増田宗善という商人がいて、金二十枚で譲りうけました。それを越前北庄城主・松平忠直に差し上げたところ、千貫下されました。増田宗善旧蔵というので、増田藤四郎と呼ばれるようになりました。

忠直は元和九年(一六二三)に、豊後に配流になったまま、慶安三年(一六五〇)に逝去しました。よって増田藤四郎は、忠直の子で当時、越後高田城主だった松平光長のもとに届けられました。翌四年(一六五一)、松平家では本阿弥家に出し、三百枚の折紙をつけました。大村加トは当時光長のもとで外科医をしていたため、本刀の拝見を許されました。それで『刀剣秘宝』にも、本刀のことを書いています。それによると、本阿弥光温が「日本で一つの道具」と褒めたといいます。また「光」の字が異常に大きいのは吉光の若い時の銘だから、と説明しています。

光長も天和元年(一六八一)に、有名な「越後騒動」によって伊予松山城主・松平家にお預けの身となりました。貞享四年(一六八七)、赦免になると、養子の長矩に家を譲りました。長矩は元禄十一年(一六九八)に作州津山城主に移されました。以後、この短刀は津山松平家に伝来していましたが、戦前すでに同家を出ています。

刃長は八寸六分(約二六・一センチ)で、筍反り、平造り、真の棟。表裏に護摩箸を彫る。梨地に板目肌まじり、棒映りのでた地鉄で、はばきもとに数個の五の目乱れを焼き、上は直刃に小乱れまじりの刃文となる。鋩子は小丸、返りはやや深い。中心はうぶ。「吉光」と二字銘。「吉」の字にくらべ、「光」の字が特に大きくなる。

参考文献:日本刀大百科事典

写真:刀剣名物帳「増田藤四郎」

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