日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【刀剣紹介】星亨斬り

星亨斬り

東京市参事会長の星亨を、明治三十四年六月二十一日、参事会員室において殺した時の伊庭想太郎の刀です。それは伊庭家伝来の武州住正重とする説があるが、本阿弥光遜が大正十三年十一月二十五日、警視庁の刑事課鑑識係室で見たのは、越前守助広の角津田銘、直刃の刀だったといいます。星亨も身の危険を感じていたとみえ、無反りの長曽祢虎徹の刀を仕込んだステッキが現存しています。

参考文献:日本刀大百科事典

【刀剣紹介】星切りの太刀

星切りの太刀

織田信長の愛刀の名です。もと曽我五郎時致所持といわれるもので、信長は金銀をちりばめた太刀拵えをつけていました。天正三年(一五七五)十一月二十八日、長男の信忠に家督を譲ったとき、この太刀も信忠に与えました。しかし、信忠が本能寺の変で横死したため、この刀も行方不明になりました。

参考文献:日本刀大百科事典

【刀剣紹介】宝寿丸

宝寿丸

奥州の宝寿作の太刀です。明治四十四年国宝、戦後、重要文化財指定されました。東京都青梅市御嶽山御嶽神社蔵です。畠山重忠奉納との伝説、または重忠自筆の願文付きともいうが、ともに誤りです。宝寿は初代でも、鎌倉末期に過ぎないからです。本刀は古くから有名で、『集古十種』にも収録されています。

刃長三尺九寸二分(約一八・八センチ)、反り一寸六分(約四・八五センチ)。丸棟。刃区から八寸(約二四・二センチ)ほど上に、大きな刃こぼれがある。表裏に、三銘柄の長い剣と真の剣巻き竜の彫物がある。地鉄は大肌、肌立つ。刃文は沸え出来の小乱れ。中心はうぶ、目釘孔三個、「宝寿」と二字銘。なお、布着せ黒漆ぬりの古鞘つく。

参考文献:日本刀大百科事典

【刀剣紹介】宝蔵院流槍

宝蔵院流

奈良の宝蔵院の覚禅坊胤栄を流祖とする、宝蔵院流槍術で使われる十文字の鎌槍です。胤栄が十文字槍を採用した動機として、胤栄がある夜、水面に映った八日の月影を見て、その形を直槍と組み合わせ、十文字にしたらよかろう、と思い付きました。それで宝蔵院では、十文字槍を月剣と呼んでいます。

箒の先がすり切れてしまい、柄に打った十字釘だけが残っているのを見て十文字槍を創始した、という講談調の話もあります。『宝蔵院十文字目録井口伝』に、唐の梨花の鎗、偃月鑓、有支の戈などの形から、十文字槍を作ったとあります。つまり中国の槍や戈からの発想で、これには、「つけば鑓なげば長刀引ば鎌 心の位とにもかくにも」、と和歌で教えているように、三つの利点があることになります。

胤栄は自家用として、奈良の金房隼人丞正実に、十文字槍を造らせたが、幕末には宝蔵院にもなく、あるのは正貞(定か)の彫物のある十文字槍だったといいます。幕末、江戸の牛込築土町の宝蔵院の伊能宗右衛門由虎という宝蔵院流の遣い手の家に、胤栄が金房政次に造らせた、十文字槍三本のうちの一本というのがありました。穂の表に「八幡」、裏に「愛宕山」と彫り、中心に「南都住金房兵衛尉政次」、と在銘でした。

宝蔵院流の槍は穂が五寸(約一五・二センチ)、鎌は片方が穂の中心から四寸(約一二・一センチ)と定められていました。それは、人が槍を持って構えた場合、斜めになった体の幅は八寸(約二四・二センチ)あるから、槍の鎌も左右合わせて八寸あればよい、という計算でした。なお、太刀打ちと蕪巻きの長さが一尺八寸(約五四・五センチ)、銅物・上逆輪・下逆輪など五か所につけ、柄は九尺(約二七二・七センチ)、石突きは五寸(約一五・二センチ)、水返しは一寸(約三・〇センチ)と定められていました。同流では掛け外しの十文字槍や、片鎌槍も用いられました。

参考文献:日本刀大百科事典

【刀剣紹介】宝蔵院流薙刀

宝蔵院流薙刀

槍術の宝蔵院流でつかう薙刀です。宝蔵院流槍は、奈良の興福寺の子院・宝蔵院の院主だった覚禅坊法印胤栄が流祖です。胤栄は上泉伊勢守秀綱に剣法を、大膳太夫盛忠に槍術を学び、鎌槍をつかう一派を創始しました。ただし、『太平記』に出ている了願から伝わった術を、胤栄が相続したに過ぎない、とする異説もあります。慶長十二年(一六〇七)正月二日没、八十七歳でした。

宝蔵院流薙刀は、上州の藤枝英一によれば、刃長一尺二寸五分(約三七・九センチ)、鍵元の身幅一寸(約三・〇センチ)ぐらいで、薙刀樋をかく。切先は半円形に強く反り、かつ身幅一寸二分(約三・六センチ)ぐらいに、広くなった形で、中心の長さは一尺三寸(約三九・四センチ)ぐらいという。

宝蔵院に薙刀術があるというのは、穴沢という薙刀の達人、というから、穴沢流薙刀術の流祖・穴沢主殿助盛秀であろうが、それが姓名を秘して、胤栄の下僕となって住み込みました。胤栄がその下僕の尋常なものでないのを見破り、素姓を質したところ、実は胤栄の槍と手合わせしたいため、と告白しました。それに応じて、胤栄が穴沢と手合わせしたといいます。そんな関係で、穴沢流の薙刀術も、宝蔵院で行われていたのでしょう。

参考文献:日本刀大百科事典

【刀剣紹介】疱瘡正宗

疱瘡正宗

元禄十六年(一七〇三)六月二十八日、伊勢の津(三重県津市)城主・藤堂高睦が襲封の礼として、将軍綱吉に献上していたものです。紀州徳川家の頼職が早世、弟の真方が襲封することになったので、将軍綱吉は片諱を与えて吉宗と改名させ、宝永二年(一七〇五)十二月朔日、この刀を与えました。八代将軍になった吉宗は、世子・家重の疱瘡全快を祝して、享保十三年(一七二八)四月四日、これを家重に与えました。

家重は世子・家治の疱瘡全快を祝して、宝暦三年(一七五三)二月十一日、これを家治に与えました。家治の跡をついだ家斉は、文政三年(一八二〇)十一月十五日、世子・家慶の疱瘡全快祝いに、これを与えました。

家慶は世子・家定の疱瘡全快祝いとして、天保十一年(一八四〇)十一月六日、これを与えました。以上のように、四回も疱瘡全快祝いに使われたので、疱瘡正宗という俗称が生まれました。

刃長二尺二寸五分(約六八・センチ)、表裏に棒樋をかき通す。板目肌の地鉄に、小彎れの五の目乱れをやく。鋩子は乱れこみ、先尖り心となる。中心は大磨り上げ、目釘孔二個。昭和十一年、重要美術品指定。戦後、大徳川家をでて、同三十五年、重要文化財指定。

参考文献:日本刀大百科事典

【刀剣紹介】疱瘡切丸

疱瘡切丸

奥平家昌が天正十九年(一五九一)十二月、元服の時、徳川家康より拝領、「備前国長船住守家造」と在銘、刃長二尺五寸二分(約七六・四センチ)の太刀。かつて疱瘡の神を斬った、という伝説からの命名

参考文献:日本刀大百科事典