日本刀の世界 ~日本の様式美~

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【刀剣紹介】抜け国吉

抜け国吉

享保名物帳』焼失之部所載、粟田口国吉作の短刀です。貫け国吉ともいいます。足利将軍義教が赤松満祐に殺された時、帯びていたものです。嘉吉元年(一四四一)六月二十四日、赤松邸に出かける朝、義教の腰刀が鞘走ったので、本阿弥本光になおさせました。二度もなおさせたが、それでも鞘走るので、三度目には二人で引っ張っても抜けないほど、きつくして差し上げたが、それでも鞘走るので、「抜け国吉」という異名がついたといいます。

しかし、当時の公家の日記によると、義教が殺される前日、将軍邸を出るとき、義教の腰刀が走ったので、他の腰刀を持って来させたが、それも鞘走ったので、義教が立腹した、とあって、鯉口をきつくするよう直させた、という記録はありません。また直せるものでもありません。本阿弥本光がその場でなおした、というのは、本阿弥家の創作と見るべきです。

義教の死体は焼け跡から探し出した、というから、その時さしていた腰刀も焼失したはずです。したがって「抜け国吉」は、最初さして出掛けようとした時の差料、ということになります。その国吉を来国吉とする説もあるが、通説では粟田口国吉作といいます。

しかし、地肌が良くなく、不出来な刀だったといいます。足利将軍家から、岸和田城主・安宅摂津守冬広の手に渡りました。そのとき本阿弥光心も拝見、押形をとりました。冬広は永禄七年(一五六四)、松永久秀の放った刺客に殺されました。その後、織田信長の有に帰したので、天王寺屋こと津田宗及を永禄八年(一五六五)二月二十二日、京都の邸によんで、これを見せている。

信長死後は、豊臣秀吉が入手したので、本阿弥光徳も押形をとっています。しかし、折紙は出していません。秀吉が生前すでに誰かに与えていたのか、それとも形見分けのとき、織田秀信に贈った国吉がそれだったのか、慶長五年(一六〇〇)には、もう豊臣家にはありませんでした。これを徳川将軍の御物とするのは誤りで、その後の消息は不明です。

参考文献:日本刀大百科事典