日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【刀剣紹介】早川正宗

早川正宗

享保名物帳』所載、相州正宗作の刀です。もと紀州和歌山城主・浅野幸長の家来で、早川伝右衛門という者が、江戸へ売りにきました。鞘もなく、反古紙に包んでありました。浅野家の腰物係が本阿弥光甫に見てもらったところ、光甫が、本刀は相州正宗である、藩主に差し上げなさい、と言って、相州正宗の作として、五千貫の代付けをしました。しかし、折紙は出しませんでした。本刀を将軍家で買い上げ、紀州徳川家へ与えました。紀州家では宝永二年(一七〇五)十一月二十八日、綱教の遺物として将軍へ献上しました。

幕府では本刀に毛貫形の太刀拵えをつけ朝廷へ進献するため、寛政六年 (一七九四)十一月十日に、腰物係より目付役の成瀬吉右衛門へ渡しました。本刀を宿次ぎで京都へ送ったが、書類に「早川正宗」という異名は書きませんでした。 腰物帳係の藤右衛門が上司の近藤吉左衛門が、何のための御進献、と腰物台帳に記入しようか、と訳いたところ、 進献の趣旨はややこしいようだから、ただ「御進献」とばかり記入しておくよう指示されました。実際に天皇へ献上したのは、翌七年(一七九五)九月五日でした。

そのことを何と書いたか、書役の田中吉蔵へ訳いたところ、ただ「御野剣」とばかり書き、早川正宗とは書かなかった、との返事でした。天皇へ献上した趣旨については、家斉が一橋家から入って、将軍家を相続した時、という説がありますが、それは天明六年 (一七八六)のことです。さらに欣子内親王光格天皇の皇后になったお祝、という説もありますが、それは寛政六年(一七九四)三月のことです。両説とも時期的に妥当性がありません。

恐らく光格天皇が実父の閑院宮典明親王に、太上天皇の尊号を贈ろう、とされていたのを、寛政五年(一七九三)に 幕府が反対したため朝廷との間が冷え切っていたので、言わば朝廷の機嫌取りに献上する計画だったのでしょう。しかし、適当な口実が見当たらな かったため、実際の献上は、寛政七年 (一七九五)に延びてしまったのでしょう。それだと、幕府の腰物係が献上の理由を書けなかったのも納得できます。

朝廷の御物になった早川正宗は、嘉永七年(一八五四)四月六日、皇居のさい焼け身になりました。本刀を広橋基豊が拝領した、というのは、広幡基豊の誤りです。基豊は当時、権大納言で、仁孝天皇の猶子・伏見宮貞教親王家の別当だった人で、愛刀家だった 義兄の孝明天皇より拝領したことになります。

刃長は二尺三寸七分五厘(約七二・〇センチ)で、表裏に樋があり、正宗と金象嵌があった。

参考文献:日本刀大百科事典