日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【刀剣紹介】中川江

中川江

『享保名物帳』所載、越中郷義弘極めの刀です。初め織田信長の長男・信忠の所持でした。それを一族の織田駿河守忠政へ与えました。忠政はのち中川八郎右衛門と改名、加賀の前田家臣となり、本刀を子の宗伴、孫の八郎右衛門へと伝えたといいます。駿河 守忠政については異説が多くあります。その弟は伊勢守忠勝といい、徳川の旗本でしたが、その系図では、中川と改名したは八郎「左」衛門重政となっています。
加賀藩の記録によると、中川清六光重と称し、織田信忠に仕え、前田利家の娘・蕭姫と結婚しました。本能寺の変後、前田家に仕え、七尾城の守備を命じられました。武勲もたてましたが、茶の湯にこり、城の修築を怠ったかどにより、天正十七年(一五八九)に、能登の津向に流されました。それから豊臣秀吉にしばらく仕えたのち、また加賀に復帰しました。おそらくこの時、中川と改姓し、別人になりすまして復帰したのでしょう。
文禄三年(一五九四)に武蔵守となり、越中増山の守将となり、知行も二万三千石に上がりました。慶長十六年(一六一一) 隠退して、巨海斎宗半と称しました。同十九年(一六一四)没、五十三歳でした。信忠からこの刀を拝領し、中川と改姓した人物の伝記としては、以上の説が正しいです。
光重には男子がなかったが、弟の伊勢守忠勝は将軍家に仕え、宮内または八郎右衛門長勝という長男がいました。それを養子にもらいました。これが『享保名物帳』にいう宗伴です。これにも嗣子がなかったので、瀬川半兵衛の子・長種を養子にし、八郎右衛門を襲名させました。元禄十四年(一七〇一)に没しました。
長種は禄五千石の大身でした。凝った拵えを付けたかったとみえ、愛刀家の津田長門守忠治に、それを依頼しました
。まず反りを伏せ、当時流行の無反りの刀にし、それに拵えをつけて、長種は本刀を鷹狩りのときの差料にしました。当時の極めは筑前の左文字になっていました。無銘ではありますが、左文字の標本として、目利きの会の鑑定刀にも出品されていました。
しかし、無銘のため長種は本刀を重視せず、加賀出入りの本阿弥光甫に、本刀を売って、他の刀に買い替えたい、と売却を依頼しました。光甫は本刀を見て、これは郷義弘です。過分の折紙がつきます。売るのは止めなさい、と差し止め、反りをつけて研ぎ直し、百枚の折紙をつけました。長
種はよほど嬉しかったとみえ、光甫が馬好きということを知っていたので、お礼に「鶍」、という名馬と、黄金十枚を贈りました。しかし、光甫はすでに前田利常から拝領の馬や、そのほかにも持っていたので、鶍と黄金九枚を長種に返し、黄金一枚だけもらいました。
その話を、将軍秀忠がきいて召し上げました。その後、本刀を越前福井城主・松平忠直に与えました。忠直はさらに子の越後高田城主・光長に譲った、といいますが、それは誤りです。寛永六年(一六二
九)十二月七日、光長の元服祝いに、 将軍家光より贈った、というのが正しいです。
延宝四年(一六七六)、本阿弥家から五千貫の折紙を出しました。光長はいわゆる「越後騒動」の責任を問われ、天和元年(一六八一)、領地を没収され、伊予松山藩にお預けになりました。その時本刀を将軍家に献上した、というが、それは誤りです。どういう訳か、光長から、光長と二従兄弟にあたる越前福井城主・松平光通の家に伝わり、その子・昌親が、延室四年(一六七六)八月二十六日、隠居挨拶として、将軍へ献上したのが正しいです。
将軍家綱が延室八年(一六八〇)五月八日没すると、その遺物として、名古屋城主・徳川光友へ贈られました。光友の孫・吉通が正徳三年(一七一三)七月二十六日に没すると、その形見として将軍家へ献上されました。 以後、将軍家へ伝来しました。終戰後、德川家を出ました。
刃長は二尺二寸二分(約六七・三センチ)、もと二尺三寸四分(約七〇・九センチ)あったのを、磨り上げたようである。反り四分四厘(約一・三五セン
チ)、大板目肌、やや肌立ち、地沸えつく。刃文は沸え出来、浅い彎れに尖り刃まじり、二重刃もある。鋩子の差し表は焼き詰めであるが、裏が尖っているので、初めは左文字と極めたのであろう。中心は大磨り上げ、無銘。目釘孔二個。

参考文献:日本刀大百科事典
写真:刀剣名物帳「中川江」

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