日本刀の世界 ~日本の様式美~

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【刀剣紹介】富田江

富田江

『享保名物帳』所載、越中郷義弘作の太刀です。もと伊勢国安濃郡津の城主・富田左近将監知信の蔵刀、といいますが、加州前田家臣で、八百石を食んでいた富田左近の蔵力、という異説もあります。富田家から、堀左衛門督秀政が金十六枚で買いうけ、豊臣秀吉へ献上しました。秀吉は本刀を関白秀次に譲りました。再び秀吉へ献上、といいますが、秀次自尽ののち、秀吉が没収したものでしょう。
秀吉が没すると、その遺物として、加州金沢の前田利長へ贈られました。本刀を将軍秀忠に献上しておいたところ、寬永九年(一六三二)二月七日に、秀忠の遺物として、前田利常が拝領しました。以後、前田家に伝来し、昭和十一年、国宝に認定、今日に至ります。
寛永(一六二四)の初め、加賀本阿弥の光瑳が、金八百枚または二万貫の代付けを主張しましたが、本家の光室は、代は付けがたい、と言って折紙を出しませんでした。文化九年(一八一二)三月、
本刀のお手入れをしたことのある本阿弥長根は『享保名物帳』を増補して、「天下一之江也」、と褒め上げていますが、これには疑問があります。
本阿弥本家の最後の当主・忠道の懐古談によれば、明治の初め、加賀本阿弥の俊蔵の案内で、前田家のお刀拝見にいったとき、入札鑑定をやりました。富田郷を忠道が二本目に当てたところ、俊蔵から叱られました。これはすべての出来が普通の郷義弘とは違っているので、光悦の時代から誰も言い当てるものがいませんでした。たいてい備前清光の目利きをしました。それをその方が言い当てたのは、刀の作風からではなく、前田家には富田郷があることを知っていての入札で、それは真の鑑定ではない、と俊蔵から叱られたといいます。備前清光にしか見えないものを、郷義弘の鑑定にしているのはおかしいです。光室が折紙を出さなかったのは、郷義弘という鑑定に承服しがたかったからでしょう。
刃長は二尺一寸四分(約六四・九センチ)。ただし、原寸はもっと長かったのを、前田利長がこの長さに磨り上 たものである。表裏に棒樋をかき通
す。行の棟。地鉄は小板目肌詰まり、地沸えつくが、沸え粒が荒い。刃文は匂いの締まった直刃に五の目まじり、足や葉入る。鋩子は乱れ込んで、丸く返るが、表裏の形異なる。中心は大磨り上げ無銘。目釘孔二個。

参考文献:日本刀大百科事典
写真:刀剣名物帳「富田江」

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