日本刀の世界 ~日本の様式美~

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【偉人の刀剣】吉田忠左衛門父子の刀

吉田忠左衛門父子の刀

赤穂義士、忠左衛門兼亮は郡奉行、その子・沢右衛門兼貞は蔵奉行でした。父子とも良い刀を持っていました。吉田家の足軽だった寺坂吉右衛門の記憶によれば、忠左衛門の大刀は備前長船祐定初代の在銘で、刃長二尺五寸(約七五・八センチ)、小刀は豊後高田の古刀で菖蒲造り、刃長一尺五寸(約四五・五センチ) 余、小ガタナは尾州信高の在銘、小柄は貝尽しの図だったといいます。

これに対して、大刀は島津の作で、刃長二尺二寸(約六六・七センチ)、小刀は広光の作で、刃長一尺八寸(約五四・五センチ)、という説があるが、島津は志津の誤写に違いありません。なお、大刀は濃州志津の作で、刃長二尺(約六〇・六センチ)、小刀は安光の作で、刃長一尺八寸(約五四・五センチ)、とする説もあります。昭和五十六年、アメリカ人の某氏が、吉武の作で、柄に「赤穂臣吉田兼亮」、と書いてある刀を、泉岳寺に奉納した、という新聞記事を見たが、寺坂吉右衛門の証言からみて、それは疑問視すべきです。忠左衛門は討ち入りのとき、大小のほかに槍を持っていきました。

子の沢右衛門の差料は、寺坂吉右衛門によれば、大刀は関孫六初代の作で、刃長二尺八寸(約八四・九センチ)余、小刀は近江守忠綱の作で、刃長一尺八寸(約五四・五センチ)余、小ガタナは尾州信高の作、小柄は武蔵野の図だったといいます。これに対して、大刀は水田国重の作で、刃長二尺九寸(約八七・九センチ)、小刀も同作で、刃長一尺八寸(約五四・五センチ)、とする説は信じがたいです。なお、討ち入りの時は、大斧を担いで行って、裏門を打ち破る、という大役を果たしました。

参考文献:日本刀大百科事典