日本刀の世界 ~日本の様式美~

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【刀剣紹介】豊後藤四郎

豊後藤四郎

享保名物帳』焼失之部所載、粟田口吉光作の短刀です。もと京都の醍醐寺門跡所蔵でした。同寺が庭園造築のさい、備前児島産の藤戸石が巨大すぎて、動かせなかった時、寛正三年(一四六二)十月以来、侍所所司代だった多賀豊後守高忠が、この脇差を抜いて指揮したところ、ようやく動かすことができました。高忠が藤四郎を拝領したのは、これより前か後かは明らかではありません。

織田信長が入手した経路は明らかではありません。本阿弥家から貞享三年(一六八六)秋、高忠の子孫である旗本の多賀新左衛門に照会したところ、昔のことで定かでないが、高忠の曽孫・信濃守貞能のとき、足利将軍へ献上したものであろう、との返事でした。すると、おそらく将軍義昭から、信長が拝領したのでしょう。そのほか、多賀家を出たあと、方々を転々としたあと、品川主馬が入手し、信長または徳川家康へ献上した、という異説もあります。品川主馬高覚とは、二百石取りの旗本であるが、元和二年(一六一六)の出生であるから、信長や家康に献上するはずはありません。主馬の父・新六郎高久でも、天正四年(一五七六)の出生であるから、信長への献上は無理です。

高久の父は、今川氏真です。永禄十一年(一五六八)、武田信玄徳川家康に攻められて没落、京都で浪居していたのを、豊臣秀吉が隣み、四百石を給していました。そんな関係で、信長は父義元の首を斬った怨敵ではあるが、同情を買う意味で秀吉を通じ、信長に献上したことは考えられます。 信長が天正十年(一五八二)、本能寺の煙となったあと、行方不明になったが、『文禄三年押形』に、中心の図を描き、「千貫」と注記してあります。なお、『本阿弥光徳刀絵図』にも、全身図が出ているから、豊臣秀吉の蔵刀だったこともあることになります。つぎに『本阿弥光柴押形』にも載っているが、それには「将軍様ニ有之」とあるから、徳川将軍家蔵になってからの押形です。

品川主馬より大御所様、つまり徳川家康へ献上品ともいうが、主馬は完康が没した元和二年(一六一六)の誕生であるから、それはあり得ないことです。そして、元和四年(一六一八)以前に、将軍秀忠の愛蔵刀になっていたことは、その年、本阿弥光甫がこれを研ぎ上げたところ、秀忠が大いに喜んだことでも、明らかです。

光甫がこれを「天下第一のぶんご藤四郎」と呼んでいるとおり、秀忠は数ある藤四郎のうち、これを最高としました。寛永九年(一六三二)正月二十三日、秀忠が臨終にのぞみ、将軍家光に譲ったのは、不動国行の太刀、江雪正宗の太刀、三好宗三左文字の刀とともに、これでした。

元和三年(一六一七)調べの刀剣台帳には、第一番に記載され、一ノ箱に保管してあったが、明暦三年(一六五七) 正月、江戸城炎上のさい焼失しました。それで享保四年(一七一九)にできた『名物帳』には、焼失之部に入れてあります。それより二年前(一七一七)、近江守継平が写した『継平押形』に、刃文が描き入れてあるのは不審です。古い押形本を見て、模写したものでしょう。

刃長九寸六分(約二九・一センチ)、平造り、行の棟。刃文は直刃で、鋩子は乱れ込んで尖り、返りはやや深いとも、乱れ刃で、鋩子は小丸ともいう。中心はうぶ、切り鑢、目釘孔一個、銘は「吉光」と二字。

参考文献:日本刀大百科事典