初桜吉光
周防山口城主・大内家重代の刀、というが、尼子興久の初桜と同物でしょう。吉光の作といいます。その吉光は粟田口吉光のことでしょう。大内義長は弘治三年(一五五七)四月二日、毛利元就に敗れ、長福寺に入って自殺するとき、大内家重代の歌館の茶入れ、九十九髪しいう肩衝とともに、本刀をもって、実兄の大友宗麟のもとに行き、三千両と換え、それをもって中国の径山寺へわが墓を建てたい。その使者に誰がなるか、と呼ばれると、かねて臆病者で知られていた杉刑部大輔が、私めが、と名乗り出た。では次に頼む、と以上の三品を託したが、杉の乗った舟が岩に乗りあげて転覆、杉は溺死しました。
参考文献:日本刀大百科事典