日本刀の世界 ~日本の様式美~

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【刀剣紹介】壺切剣

壺切剣

皇太子相伝の宝剣です。古くは壺斬剣と書きます。もと贈太政大臣藤原長良所持でした。漢の張良の剣という説明は、長良を音読みして、張良と勘違いしたものです。当時すでに有名だったので、文徳天皇がそれを取りよせ、陰陽師に厭法つまりお祓いを命じられました。陰陽師はお祓いするといって、それを土中に埋めたところ、天皇が天安二年(八五八)八月二十七日、俄かに早世されました。陰陽師は驚いて逃亡してしまったが、剣は幸い神泉苑の傍で発見され、無事藤原家に返されました。

長良の子の太政大臣・基経は、これを宇多天皇に献上しました。その時すでに「壺斬」という異名がついていました。当時の文章博士橘広相が作った「御剣銘」という詩に、「氷刃一奮スレバ、酒壺、旁分ス」とあります。この詩を基経が宇多天皇に献上しているから、この御剣とは壺切剣に違いありません。すると、かつてこれで酒壺を切り割った実績から、壺切と命名されたことになります。

醍醐天皇が寛平五年(八九三)四月二日立太子のとき、宇多天皇がこの剣を授けられたのが慣例になって、以後、立太子のとき天皇より賜うことになりました。よって、醍醐天皇も延喜四年(九〇四)二月十日、崇象親王立太子のとき、これを皇太子に授けられました。 三条天皇は寛弘八年(一〇一一)六月十三日、後一条天皇立太子のとき、これを授けられました。しかし、後一条天皇が長和五年(一〇一六)正月二十九日、敦明親王を皇太子にされると、左大臣藤原道長は、親王藤原氏の女の出でないというので、この剣を提出しませんでした。教明親王が皇太子を辞退し、後朱雀天皇が寛仁元年(一〇一七)八月九日、皇太子になられると、親王藤原氏の出だったので、藤原道長は同月二十三日、直ちに提出しました。

後三条天皇が寛徳二年(一〇四五)正月十六日、皇太子になられると、またもや藤原氏の女の出でないというので、道長の子・教通もこの剣を提出しませんでした。しかし、後三条天皇が治暦四年(一〇六八)四月十九日即位され、教通も関白になったので、機嫌をなおし、この剣を提出したが、今度は天皇が、今さら無用、と拒絶されました。仕方なく持ち帰ったが、同年十二月十一日、教通の邸が炎上、この剣も焼け身となりました。恐らく焼き直してからであろうが、新たに外装をつけて、献上したといいます。

しかし、それより九年前の康平二年(一〇五九)正月八日、皇居一条院炎上のとき焼失、という説があります。すると、後三条天皇が皇太子時代、すでに提出していて、それが焼けたことになります。つぎに、後三条天皇は延久元年(一〇六九)四月二十八日、白河天皇立太子のとき、これを授けられました。同四年(一〇七二)閏七月三日、皇居一条院炎上、この剣も焼失した、という説明があるが、そのとき皇居炎上の事実はありません。

高倉天皇は仁安元年(一一六六)十月十日、立太子のときこの剣を授けられました。つぎの安徳天皇も降誕の翌月、つまり治承二年(一一七八)十二月十五日、皇太子になると、父・高倉天皇からこの剣を授けられました。その後、後鳥羽天皇土御門天皇順徳天皇立太子のとき伝授されました。順徳天皇は承久三年(一二二一)四月二十日譲位し、同月二十八日この剣を、後鳥羽上皇に返還されました。しかし、その翌月勃発した承久の乱で、この剣は行方不明になりました。

それで後深草天皇が寛元元年(一二四二)六月十日降誕、二か月後、立太子のときは、右大臣・西園寺実氏が壺切剣を模造させたもので代用されました。次の亀山天皇が正嘉二年(一三五八)八月十日、立太子の時もそれを授けられたが、翌正元元年(一二五九)、昔の剣が勝光明寺で発見されたので、同年十二月二十日改めてそれを授けられました。勝光明寺は洛外の鳥羽にあり、後鳥羽上皇勅願寺でした。上皇承久の乱に敗れると、ここに入って薙髪され、ここから隠岐の島に遷されました。そのとき壺切剣はここに残置されていたことになります。

その後、壺切剣は立太子のとき、連綿と伝授されてきたが、江戸期になると、承応二年(一六六三)六月二十三日、および万治四年(一六六一)正月十五日、内裏炎上のさい、この剣も罹災しました。しかし、刀身には異状がなかったので、幕府が外装を新調して、献上しました。

壺切剣について平安末期、雄剣つまり武太刀という噂があったが、それは否定されています。もとの外装、つまり後三条天皇のとき焼失する前の外装は、鞘には海浦の蒔絵に、竜のような螺鈿があり、装束革は青滑革でした。大刀袋は赤地錦で、立太子のときは延臣が奉持して、皇太子の御所に持参しました。天皇からの親授ではありませんでした。江戸期には病気のまじないになる、という迷信さえあったらしいです。いつのころか、近衛家に降嫁された皇女が病気のさい、この剣を拝借し、そのまま永く近衛家に留めおかれました。その後、宮中にも病人が出たので、近衛家から取り戻したといいます。

この剣の外装は現在、銀造りの毛抜き形の太刀になっているともいいます。刀身については、天国という説と、備前延房という説があります。しかし、壺切剣は平安初期からあるのに、備前延房は鎌倉初期に過ぎません。壺切延房はまったくの別物です。

壺切剣の刀身について、新井白石は、元は片刃で、先は両刃といい、明治時代、宮内省の御剣係だった今村長買は、切り刃造りで、刃長二尺五分(約六二・一センチ)、地鉄は至って細やかだが、刃文は焼けて不分明、と説明しています。刃長は二尺二寸五分(約六八・二センチ)という説もあるが、二尺五分が正しいです。

現在、宮内庁の刀剣台帳によれば、直刀で、先三寸(約九・一センチ)ほどは両刃、中心は反り、目釘孔は二個、形が大きく複雑な形をしているという。拵えの鞘は破損がかなりひどかったとみえ、先年、東京の遠藤蒔絵師が補修したと聞く。

明治以前は、立太子礼が行われて初めて皇太子と呼ばれたが、明治の『皇室典範』によって、皇長子は生まれると同時に、皇太子呼ばれることになりました。しかし、立太子礼は成人してからで、その時、壺切剣は天皇より新皇太子に渡されました。現在の皇太子は、昭和天皇崩御と同時に、皇太子になられたが、成人式はすでにすんでいたので、立太子式は三十一歳の誕生日を期して、平成三年二月二十三日行われ、壺切剣が伝授されました。

参考文献:日本刀大百科事典