日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【刀剣紹介】沢井正宗

沢井正宗

伊賀越の仇討ちで、沢井家伝来とされている相州正宗の刀です。この仇討ちの真相は、備前岡山藩士の河合又五郎がささいな遺恨から、寛永七年(一六三〇)七月、江戸において、同藩の渡辺数馬の弟・源太夫(小才治)を殺して出奔、旗本の阿部四郎五郎らのもとに身を隠しました。岡山藩主・松平忠雄が、又五郎の引き渡しを求めたが、四郎五郎らが承知しませんでした。そのため岡山藩と旗本とが対立、不穏な形勢になったため、幕府は四郎五郎らが又五郎を庇護することを禁じました。

追われた又五郎は、伯父の河合甚左衛門宅に潜んでいたが、甚左衛門がもと大和郡山藩士だった関係で、郡山に身を隠すことになりました。それを知った数馬は、姉婿の荒木又右衛門とともに、その跡を追ったが、又五郎らがさらに伊賀へ逃走することを知り、寛永十一年(一六三四)十一月七日、伊賀上野の西端、鍵屋の辻に待ち受けていて、数馬が又五郎、又右衛門が甚左衛門を斬りました。そのほか斬られたのは、藤堂家の調書では二名、計四名に過ぎませんでした。荒木又右衛門の三十六人斬りというのは、後世の創作です。

この仇討ちが最初に戯曲化されたのは、享保(一七一六)のころであるが、今日伝わっていません。次は安永五年(一七七六)、紀上太郎の『志賀の敵討』、さらに翌年(一七七七)、奈河亀助の『伊賀越栗掛合羽』が上演され、大好評を博しました。天明三年(一七八三)、近松半二らの書いた『伊賀越道中双六』が、また人気を集め、引き続き今日まで上演されています。 これらの戯曲では、沢井股五郎家伝来の沢井正宗を登場させ、それが紛争の種になっています。さらに渡辺方の者が密書を呑み込んだあと、正宗で腹を切って、密書を取り出す、という悲愴な場面も考案されています。

参考文献:日本刀大百科事典