日本刀の世界 ~日本の様式美~

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【刀剣紹介】権藤鎮教薙刀

権藤鎮教薙刀

權藤平左衛門尉行澄所持、豊後高田住平鎮教作の薙刀です。『享保名物帳』追記の部に記載されています。朝鮮出兵のさい、敵兵が虎を黒田如水に向けて、けしかけました。主君危しとみて、権藤某がこの薙刀をふるい、虎を仕留めたという説は誤りです。実は関ヶ原合戦のさい、日州県(延岡)城主・高橋右近将監元種(種統)は西軍にくみし、濃州大垣へ向かいました。東軍に加わった同国飫肥城主・伊東豊後守祐兵は子息・左京亮祐慶をくだし、高橋領の宮崎城を改めさせました。宮崎城代の権藤平左衛門尉種盛は豪勇の老将で、本丸に乱入してきた伊東勢百余人を相手に、薙刀で一八人を斬って棄てたあと、屠腹して果てました。その薙刀を、黒田如水が検使として派遣していた宮川半(伴)左衛門に、伊東家から差し出したので、以後、黒田家の重宝になったといいます。

しかし、伊東家側の記録によれば、城代の平左衛門は入道した老将で、自ら薙刀を揮って戦った様子はありません。平左衛門の次男・八右衛門種公が 飯篠流の達人で、薙刀をもって縦横に斬って回ったが、四本与右衛門に討ち取られました。父の平左衛門も岩切四郎右衛門が討ち取ったというから、父子が屠腹して果てた、というのも誤りです。薙刀も父平左衛門所持でなく、次男八右衛門所持と見るべきです。

薙刀は刃長二尺二寸八分(約六九・一センチ)。先幅の狭い長巻き型で、表裏に薙刀樋に添え樋をほる。地鉄は小板目肌つまり、地沸えつくが、澄み肌現れる。刃文は尖った小五の目乱れ、鋩子は乱れ込んで尖り、返りは深く焼き下げる。中心は区送りし、表に「平鎮教」、裏に金象嵌で「権藤」とある。

参考文献:日本刀大百科事典