日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【刀剣紹介】香西長光

香西長光

享保名物帳』所載の刀です。これはもと香西又六元長所持でした。元長は細川政元の部将で、政元には実子がなく、澄之・澄元という二人の養子がありました。澄元が政元の寵愛をうけ、かつ三好長輝の補佐をえて優勢なのに対抗して、香西元長は澄之を推していました。退勢を挽回するため、政元を除き澄元を逐う計画をたてました。そして永正四年(一五〇七)六月二十三日、政元の入浴中、部下に命じて殺させたが、八月朔日には澄元側からの攻撃に敗れ、討死しています 。本刀はその香西元長所持とされています。その後、松永久秀が所持していたものを、徳川家康に贈り、家康はそれを水戸頼房に与えた、という説は誤りで、天正八年(一五八〇)には、織田信長の秘蔵刀の一つで、同年二月二十二日、堺の豪商・津田宗及が上洛したさい、信長から見せてもらっています。

なお、豊臣秀吉のころは、香西という大名の家にあったといいます。それは堺の新堀城に立てこもり、織田信長に敵対した香西越後守のことでしょう。越後守は天正三年(一五七五)四月十九日、新堀落城のさい、捕虜になり殺されました。そのときの佩刀がこの長光で、信長によって召し上げられたものが、のち豊臣秀吉に渡ったのでしょう。秀吉が死んで豊国神社ができると、同社へ奉納されました。しかし、本阿弥又三郎光徳に預けられていました。光徳が金二十五枚の折紙もつけていました。おそらく豊臣家滅亡のさい、徳川家康が召しあげ、水戸頼房に与えたのでしょう。水戸家の伝来品となりました。延宝五年(一六七七)九月、同家から本阿弥光茂のもとに研ぎに来ました。光茂が研いだのに、養子の光理が拭いを入れ、一族の六左衛門が磨きをかけました。大正十二年の関東大震災のさい、水戸邸で焼失しました。

刃長一尺八寸九分五厘(約五七・四センチ)、表裏に二筋樋を中心先までかき通す。丸棟。丁子乱れは小さく、染みが多かった。銘は「長光造」と三字銘だった。

参考文献:日本刀大百科事典