日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【刀剣紹介】吉見左文字

吉見左文字

享保名物帳』所載、筑前左文字極めの刀です。もと石州津和野(島根県鹿足郡津和野町)城主・吉見正頼所持でした。正頼ははじめ大内氏に仕えていましたが、天文二十年(一五五一)、陶晴賢大内義隆を殺すと、妻が義隆の姉だった関係で、毛利元就と組んで、晴賢に当たりました。弘治元年(一五五五)十月、ついに晴賢を敗死せしめました。その後は強大になった毛利家の勢力に抗しかね、永禄九年(一五六六)、毛利家に臣従するの止むなきに至りました。そして尼子義久の立てこもる、富田城攻めに参加していたが、義久も力尽きて、十一月二十一日開城しました。正頼が佩刀の左文字を、長過ぎるとして磨り上げさせたのは、富田城攻めから帰陣した後のことでしょう。磨り上げ銘は、佩き表に「左文字 吉見正頼研上之」、裏に「永禄九年八月吉日」と入れさせました。

正頼は毛利家が関ヶ原の役の敗北によって、領地を削減されたあおりを受け、津和野城を召し上げられました。領地も長州阿武郡(山口県)に移されました。かねて正頼の左文字が名刀であることを、徳川家康は聞いていたとみえ、本刀を召し上げてしまいました。そして後年、本刀を名古屋藩主・徳川義直に与えました。

同家では二代光友のころから、藩主の「三腰」の第一にあげられ、出陣・登城、あるいは上野・紅葉山の参詣のさいは、これを佩用することになった。それで拵えも七通りほど用意されていました。寛政六年(一七九四)には、尾州竹屋家八代目の九右衛門家義に、研ぎなおしを命じています。現在は徳川美術館保管です。

刃長二尺一寸九分(六六・四センチ)、反り六分(約一・八センチ)、真の棟、本造り。地鉄は板目肌に柾目まじり、地沸えつく。刃文はもと直刃、中ほどから大乱れとなり、飛び焼きまじる。鋩子は乱れ込んで尖る。物打ちに一か所、切り込みの痕があり、正頼の奮戦ぶりを示している。

参考文献:日本刀大百科事典

写真:刀剣名物帳「吉見左文字

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