日本刀の世界 ~日本の様式美~

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【刀剣紹介】戸川志津

戸川志津

享保名物帳』所載、濃州志津兼氏極めの短刀です。もと戸川肥後守逵安所持でした。逵安は初め宇喜多秀家に仕え、備前常山城主でしたが、慶長四年(一五九九)、老臣と結んで秀家に反抗したので、徳川家康の裁判で追放となりました。翌五年(一六〇〇)、関ヶ原合戦で手柄をたてたため、備中庭瀬城主に返り咲きました。本刀はおそらく追放されたとき、売りに出したのでしょう。加賀の前田利常が大判百三十枚か、小判千両かで買い上げました。

寛永六年(一六二九)四月二十九日、前将軍秀忠が前田家の別邸にきたとき、利常から本刀を献上しました。その後、徳川頼宣が拝領したので、寛永十九年(一六四二)、本阿弥家へやり、従来、百枚だったのを百三十枚にしました。しかし、折紙の日付は、翌二十年(一六四三)正月三日になっていました。寛文元年(一六六一)十二月八日、本阿弥光温は竹屋六右衛門とともに、武州法恩寺において拝見、寸尺を測りました。寛文七年(一六六七)五月、頼宣が隠居したとき、尾州徳川綱誠に贈りました。

しかし、これには異説があります。尾州徳川家の記録では、元和七年(一六二一)三月二十六日、将軍より拝領となっています。さらに不審なことは、幕末になって、本阿弥長根が増補した『名物帳』の副本では、所持者が「尾張殿」となっていますが、享保四年(一七一九)、『名物帳』が編集された当時の原本では、「松平伊予守」つまり備前岡山城主・池田綱政の所有となっています。すると、綱政の父・光政が寛永五年(一六二八)、結婚祝に前将軍秀忠から拝領した志津の脇差が、戸川志津だったことも考えられます。以上のとおり、本刀の来歴には不審な点が多くあります。

刃長八寸九分(約二七・〇センチ)、無反り、真の棟。地鉄は板目肌、棟寄りに柾目が見え、地沸えつく。差し裏の中程より少し下、棟角に疵がある。文は浅い彎れ乱れで、飛び焼きが多く、切先は皆焼風になる。ただし、差し表のふくらの下は、少し染みる。鋩子は乱れ込み、先は掃きかけ、返りは長く、棟もところどころ焼ける。中心はうぶ、鑢目は勝手下がり、目釘孔二個、無銘。

参考文献:日本刀大百科事典

写真:刀剣名物帳「戸川志津」

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