日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【刀剣紹介】鄙田青江

 鄙田青江

享保名物帳』所載、備中の青江恒次の刀です。寛永十七年(一六四〇)に、日向半兵衛が本阿弥家に持って来て、十三枚の折紙をつけてもらいました。『享保名物帳』に、「越中富山鄙田半兵衛と申者所持」、とあるのは誤りです。

第一、寛永十七年には、まだ富山藩はありません。前田利次が十万石を分けてもらい、富山藩を開いたのは、ずっと後、万治三年(一六六〇)のことです。

第二に、富山藩にも前田藩にも、家臣に鄙田姓も日向姓もありません。本刀の旧主・日向半兵衛政成は、もと駿河大納言忠長の家臣です。寛永九年(一六三二)に、忠長が上州高崎藩にお預けになった時、半兵衛も遠州横須賀藩にお預けとなりました。同十三年(一六三六)に赦免となり、知行三千八十石を与えられました。同二十年(一六四三)五月二日、七十九歳で没しました。それで、政成の生存中に、本刀を本阿弥家に見せ、折紙をつけたことになります。

しかし、古い『享保名物帳』には、越中富山から出たもので、浮田秀家の家来・鄙田半之丞所持、としたものがありますが、浮田家の家臣に、鄙田姓のものはいませんでした。半之丞も半兵衛の誤写と見るべきです。なお、浮田家も慶長五年(一六〇〇)、関ケ原合戦で消滅しているため、この説は信じがたいです。さて、日向半兵衛が折紙をつけたのは、どうも売るためだったようです。正保四年(一六四七)、豊前小倉城小笠原忠真の娘が、筑前福岡城黒田忠之の世子・光之に嫁いだ時、婿引き出物として、本刀を光之に贈りました。その後、『享保名物帳』にも、黒田家蔵として記載されています。 戦後、同家を出ています。

刃長については、一尺三寸五分(約七一・二センチ)・二尺三寸五分五厘(約七一・四センチ)・二尺三寸六分(約七一・五センチ)など、記述の相違がある。地鉄は小板目肌つまり、地沸えつき、白け映りが現れる。刃文は直刃に小五の目乱れや小足入り、刃縁しまる。鋩子は小丸、品よく返る。中心は磨り上げ、目釘孔二個。「恒次」と二字銘。古い『享保名物帳』には、後の恒次で、名物に入るほどの物にあらず、と注記している。

参考文献:日本刀大百科事典

写真:刀剣名物帳「鄙田青江」

f:id:seiya3939:20171116121956j:plain