日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【刀剣紹介】観世正宗

 観世正宗

享保名物帳』所載の刀です。これは初め「森正宗」と呼ばれていました。その由来は不詳です。のち能楽観世流宗家七代・観世太夫元忠の所持でしたので、観世正宗と改称されました。元忠の号は宗雪でなく、宗節が正しいです。本刀を徳川家康が召し上げたのは、七代宗節または九代黒雪の時、といいます。黒雪は左近太夫忠親と称し、本阿弥光悦の書道の門人でもあったため、光悦から観世家の正宗のことを聞き、家康は召し上げたのでしょう。観世家の所伝では黒雪が死去したとき、家康はそれを惜しみ、世阿弥の『花伝書』を献上するよう命じたので、いっしょに正宗も献上した、といいますが、それは誤伝です。黒雪の死去は寛永三年(一六二六)、つまり家康死後です。また『花伝書』を献上したのは、六代元広の次男・観世十郎太夫だからです。十郎太夫は病弱なため、宗家を継がず、駿河にゆき家康に仕えていました。それで「験河観世太夫」と呼ばれていた人です。将軍秀忠の長女千姫、つまり天樹院が元和二年(一六一六)九月、本多中務大輔忠刻に再嫁するとき、本刀を婚引出としましたが、忠刻は寛永三年 (一六二六)五月七日、三十一歳で早世しました。それでその遺物として将軍家へ 献上しました。ところが、「埋忠銘鑑」見ると「毛利殿すり上 寿斎かなぐ仕申候 酒讃岐殿ニ有之」とあります。また同書寿斎本にも「酒讃岐殿に有之 無利にすり上 寿斎金具仕候」とあります。

「酒讃岐殿」とは、幕府の老職・酒井讃岐守忠勝のことでしょう。おそらく本多忠刻の祖父忠勝と、酒井忠勝を混同したものでしょう。 本阿弥家の記録には、本多忠勝が天樹院入興のとき拝領し、のち将軍家へ献上していたものを、忠勝の嫡子・忠政が元服のとき、再拝領したとありますが、それは誤りです。松平光長寛永六年(一六二九)十二月七日、元服のさい前将軍・秀忠から本刀を拝領しました。光長は越後高田城主で、大村加トの主君に当たりますので、本刀を拝見したことがあるとみえ、自著『剣力秘宝』に、切先の図を載せ、さらに光長から将軍家綱に差しあげたところ、返礼として判金五百枚を下された、と附記しています。しかし四百枚が正しいようで、時期は寛文三、四年(一六六三〜四)ごろとも、寛文三年(一六六三) ともいいます。元禄十年(一六九七) 十二月十二日、将軍綱吉が甲府中納言・綱豊の館に臨んだとき、本刀を綱豊に与えました。綱豊はのちの将軍家宣ですので、以後、将軍家の蔵力となりました。『継平押形』に、観世正宗として「正宗」と金象嵌入りの刀の押形を掲げていますが、これは将軍家『御腰物台帳』に「二五 象嵌銘正宗 御力 長二尺四寸」とあるものと混同したものです。明治維新後、徳川家から有栖川宮織仁親王に献上しました。同家を相続した高松宮家に戦後までありましたが、現在は国が買い上げています。代付けは本多家にあるころ千貫、万治三年(一六六〇)に三千貫、その後二百枚にふえ、さらに『享保名物帳』には、七千貫または三百五十枚と記載されています。

刃長二尺一寸三分(約六四・五センチ)で、鍋造り、表裏に棒樋をかき、その中に、佩き表は楚字と剣巻き竜、裏は楚字と素剣を浮き彫りにする。ただし大磨り上げであるため、彫物は中心に隠れている。地鉄は板目肌つまり、大肌をまじえ、地沸え厚くつく。刃文は五の目乱れで腰開き、砂流し・ほつれ・湯走りなどを見る。鋩子は掃掛け火炎頭となる。中心は大磨り上げ無銘。目釘孔二個別。

参考文献:日本刀大百科事典

写真:刀剣名物帳「観世正宗」

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