日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

【刀剣紹介】一庵正宗

日本の美、日本刀

まだ腰に刀を差していた時代、日本刀は自分の身を守るためだけではなく拵えの装いや粋な刀装具を周囲に見せ、その刀を差す武士の品格を表していました。また、現代のように自身を彩るものは多くなく、腰に差す刀剣でその人のお洒落さをも表していたといいます。そんな千差万別ある日本刀を紹介していきます。

一庵正宗

享保名物帳』所載の短刀です。刀号はもと横浜一庵法師が所持していたためです。一庵良慶ははじめ豊臣秀吉の異腹弟・羽柴秀長重臣です。秀長が天正十九年(一五九一)正月没すると、関白秀次の末弟・秀保(秀俊)を養嗣子にし、一庵と藤堂高虎が補佐の任に当たりました。秀保が早世すると、一庵は秀吉に仕え伏見城にありましたが、慶長元年(一五九六)閏七月十二日の大地震で圧死しました。その後、豊臣秀吉京極高知に与えました。京極家から徳川家に献上したとし、元和九年(一六二三)六月、将軍家光が上洛の途中、井伊直孝の居城に立ち寄ったときに本刀を直孝に与えました。

直孝の孫・掃部頭直該が元禄十四年(一七〇一)三月、隠居したときに本刀を将軍綱吉に献じました。『名物帳』に遺物として献上した、というのは誤りです。将軍綱吉が宝永六年(一七〇九)正月薨去すると、その遺物として二月二十一日(六月三十日)に尾張藩主吉通に贈られました。代付けははじめ百十枚でしたが、慶安四年(一六五一)に百五十枚となり、さらに元禄十四年(一七〇一)三月、二百枚にふえています。なお『随筆東鑑』に本阿弥光室が三百枚にあげた、とあるのは誤聞です。

刃長は八寸二分(約二四・八センチ)で、地鉄は小杢目に大肌まじる。刃文はもと彎れ気味の直刃、先は五の目乱れ、二重刃、飛び焼きまじる。ただし『名物帳』にあるとおり、中ほどが二寸(約六・一センチ)ほど刀染みる。中心は目釘孔三個、無銘。

現在、重要文化財に指定され、徳川黎明会に所蔵されています。

参考文献:日本刀大百科事典

写真:刀剣名物帳「一庵正宗」

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