日本刀の世界 ~日本の様式美~

日本の伝統文化である日本刀の刀工・刀鍛冶、名刀、刀剣書籍など

短刀

【刀剣紹介】鳩丸

鳩丸 1.短刀 粟田口国綱の作です。初め花山院家の家士・岡野内匠介健則が、慶長十八年(一六一三)、徳川家康から拝領しました。元和六年(一六二〇) 六月、将軍秀忠の娘・東福門院が、後水尾天皇に入内したので、その守り刀として健則より献上しました。寛永九…

【刀剣紹介】般若剣

般若剣 1.島津家伝来の短刀です。十四代勝久の孫・藤野秀久が伝持していたものを、勝久の養子で、十五代目を継いだ貴久に贈ったものです。 刃長五寸八分(約一七・六セ ンチ)、波平行安の作。第二次大戦で戦災焼失。 2.奥州守山藩主・松平頼貞の作刀に、「般…

【刀剣紹介】八幡正宗

八幡正宗 『享保名物帳』焼失之部所載、相州正宗作の短刀です。もと織田信長所持、徳川家康に贈りました。徳川家から、加賀の前田家に与えたとみえ、将軍家光の養女・阿智姫が、寛永十年(一六三三)十二月、前田光高に入興したとき、父の利常が豊後行平の太刀…

【刀剣紹介】上り下り竜正宗

上り下り竜正宗 『享保名物帳』焼失の部所載、相州正宗の短刀です。上り竜下り竜正宗・のぼり竜正宗・のぼる竜正宗ともいいます。もと織田信長の蔵刀で、堺の津田宗及は天正八年(一五八〇)二月二十二日、信長の面前でこれを拝見しています。のち豊臣秀吉が入…

【刀剣紹介】抜け国吉

抜け国吉 『享保名物帳』焼失之部所載、粟田口国吉作の短刀です。貫け国吉ともいいます。足利将軍義教が赤松満祐に殺された時、帯びていたものです。嘉吉元年(一四四一)六月二十四日、赤松邸に出かける朝、義教の腰刀が鞘走ったので、本阿弥本光になおさせま…

【刀剣紹介】楠竜正宗

楠竜正宗 楠正成の差料との伝説ある短刀です。『集古十種』『刀剣図考』所載です。本阿弥光常の七千貫の折紙付きです。 刃長九寸四分(約二八・五センチ)、反り一分(約〇・三セ ンチ)、平造り、真の棟。差し表に梵字と素剣、裏に梵字と護摩箸を彫る。地鉄は杢…

【刀剣紹介】鍋通し正宗

鍋通し正宗 『享保名物帳』追記の部に所載されています。相州正宗作の短刀です。豊臣秀頼が慶長十六年(一六一一)三月二十七日、京都の二条城で徳川家康と対面のさい、家康よりこれと大左文字の刀を贈られました。大坂城では一之箱に納められていたが、大坂落…

【刀剣紹介】長岡藤四郎

長岡藤四郎 『享保名物帳』焼失之部所載、粟田口吉光作の短刀です。命名の由来については、長岡(細川)幽斎所持説・長岡(細川)三斎が将軍秀忠より拝領説・長岡斎記所持説などがあります。そのうち、長岡京記とは細川家臣で、慶長(一五九六)ごろ所持といいます…

【刀剣紹介】茶臼割り

茶臼割り 上州吾妻郡三原(群馬県吾妻郡妻恋村)の地頭で、信州真田家の一族だった羽尾家の重代、刃長三尺三寸(約一メートル)、備前長船長光の作です。永禄七年(一五六四)正月七日、国府台(千葉県市川市)の戦に、羽尾幸世兄弟はこれを佩いて出陣しました。戦い…

【刀剣紹介】茶臼丸

茶臼丸 1.坂崎出羽守成正家の四刀の一です。茶坊主が茶をひいているところを、出羽守がこの脇差で、茶臼もろとも真二つに斬りわったことからの命名です。出羽守は千姫を奪う計画が発覚、元和二年(一六一六)自殺しました。本刀が坂崎家旧蔵と知らず、豊前国竜…

【刀剣紹介】俵屋了戒

俵屋了戒 『享保名物帳』追記に所載、京の了戒の短刀です。もと絵師・俵屋宗達の差料でした。将軍秀忠に献上したのを、秀忠は大聖寺城主・前田利治に与えました。宗達の妻は本阿弥光悦の妻の姉だったので、本刀も光悦の眼鏡にかなった名品だったに違いません…

【刀剣紹介】太子屋国吉

太子屋国吉 『享保名物帳』所載、粟田口国吉作の短刀です。泉州堺の太子屋という酒屋旧蔵でした。 醍醐屋と書くのは誤りです。本阿弥光徳が百枚の折紙をつけました。徳川頼宣がまた駿府にいたころ、将軍秀忠に献上したものを、元和七年(一六二一)、徳川義直…

【刀剣紹介】宗易正宗

宗易正宗 『享保名物帳』焼失之部所載、相州正宗作の短刀です。細川幽斎が豊臣秀吉に献上しました。秀吉が利休に、何か一品遣そう、といったところ、正宗の脇差を戴きたい、といったので、長銘の正宗を与えました。利休はそれに拵えをつけるべく、以前買って…

【刀剣紹介】瀬登丸

瀬登丸 奥州仙台藩主・伊達家蔵の短刀です。 刃長七寸三分(約二二・一センチ)、表に素剣、裏に梵字の彫物。無銘。 伊達家の重臣・秋保家の十四世・弾正真盛が、領地の陸前国名取郡秋保(宮城県)の覗という淵に、この短刀を取り落としました。深淵のためあきら…

【刀剣紹介】凌藤四郎

凌藤四郎 『享保名物帳』焼失之部所載、粟田口吉光の短刀です。鎬藤四郎とも書きます。もと阿波の細川家伝来でした。それを織田信長の臣・佐久間信盛が入手、それを信長へ 献上しました。天正九年(一五八一)七月二十七日、信長は三男信孝に与えました。その…

【刀剣紹介】芝吉光

芝吉光 加州前田家所蔵、粟田口吉光、九寸五分(約二八・八センチ)の短刀です。江戸の芝で銭五十文で買ってきた短刀を、無縁坂の業者が二百文で買いました。本阿弥光雲(温)がそれを五百文で買い、研ぎ上げたところ、粟田口吉光の正真で、銘は「大口」の「吉光…

【刀剣紹介】三位来国次

三位来国次 差し裏に「三位」とある来国次の短刀です。徳川家康の差料という説は疑問であるが、将軍家の御物だったことは確かで、江戸城の「小ノ一ノ箱」に入れ てありました。寛永九年(一六二三)五十枚の折紙をつけました。その後、越前福井城主・松平忠昌(…

【刀剣紹介】塩河来国光

塩河来国光 『享保名物帳』所載、京の来国光の短刀です。もと江州佐和山城主・石田三成の臣・塩川志摩か、播州明石城主・塩川信濃守かの所持といいます。埋忠家で金無垢の二重鎺を作りました。現在もそれがついていて、上貝に「うめたゝ 寿斎 彦一入」と銘が…

【刀剣紹介】塩河藤四郎

塩河藤四郎 『享保名物帳』焼失之部所載、粟田口吉光の短刀です。江州佐和山城主・石田三成の臣・塩川志摩(佐助・喜左衛門)か、播州明石城主・塩川信濃守かの所持だったものです。その後、徳川将軍家蔵となったが、明暦三年(一六五七)の大火で焼失しました。…

【刀剣紹介】真田藤四郎

真田藤四郎 『享保名物帳』焼失之部所載、粟田口吉光作の短刀の異名です。ただし古い写本にはこれを載せていません。信州松代城主・真田伊豆守信之所持でした。のち徳川将軍家蔵となり、明暦三年(一六五七)の大火で焼失しました。 刃長八寸一 分(約二四・五…

【刀剣紹介】佐々木国行

佐々木国行 江州佐々木家重代、来国行の短刀の異名です。観音寺城主・佐々木義賢は元亀元年(一五七〇)八月、織田信長に降伏しています。そのとき信長に献じたのでしょう。堺の天王寺屋・津田宗及が天正八年(一五八〇)二月二十二日、京都において大小取り交ぜ…

【刀剣紹介】こぶ屋藤四郎

こぶ屋藤四郎 千利休が切腹に用いた粟田口吉光の短刀です。もと加州金沢の商人こぶ屋所蔵でした。 刃長八寸二分五厘(約二五・〇センチ)、表裏に刀樋をかき流す。小杢目肌の地鉄に直刃を焼く。「吉光」と二字在銘。拵えは利休が本阿弥光徳に作らせたもの。赤…

【刀剣紹介】小乱れ藤四郎

小乱れ藤四郎 『享保名物帳』追記の部所載、粟田口吉光の短刀です。豊臣家の所蔵、大坂落城のさい焼失したのであろう、所在不明です。ただし本阿弥光徳のとった押形があります。 刃長七寸二分五厘(約二二・〇センチ)、平造り、浅い五の目乱れをやく。鋩子は…

【刀剣紹介】駒井藤四郎

駒井藤四郎 『享保名物帳』星野求与本の追記の部所載の短刀です。粟田口吉光の作です。駒井は豊臣秀吉に仕え、三万六千三百石を領していた駒井中務少輔重勝でしょう。重勝は関ヶ原の役で西軍に加わったため、領地を没収されました。それで愛刀吉光を手放した…

【刀剣紹介】黒田正宗

黒田正宗 『享保名物帳』焼失之部所載の短刀です。初め筑前福岡城主・黒田忠之入道宗英所持でした。ただし黒田家の家老所持という異説もあります。忠之がこれを駿河大納言忠長へ贈ると、忠長はさらに将軍家光に献上しました。家康へ献上という説は誤りです。…

【刀剣紹介】車屋藤四郎

車屋藤四郎 『享保名物帳』焼失之部所載の短刀です。謡曲『車屋本』の編集者・車屋道悦の一族である車屋宗瑞旧蔵でした。のち筑後久留米城主・有馬家の所蔵となりました。有馬忠頼の遺物として、明暦元年(一六五五)七月、正宗の刀と吉光の脇差を将軍に献上し…

【刀剣紹介】京極正宗

京極正宗 讃州丸亀城主・京極家伝来の短刀です。同家中興の祖・若狭守高次は豊臣秀吉の側室・松丸の兄で、この正宗も秀吉より拝領といいます。しかし秀吉の形見として高次に贈られた樋口正宗と、おそらく同一物でしょう。樋口はヒノクチとよむのが正しいです…

【刀剣紹介】岐阜国吉

岐阜国吉 『享保名物帳』焼失之部所載の名物、粟田口国吉の短刀です。初め浅野長政が所持していて、本阿弥光徳が五百貫の折紙をつけました。それを関白秀次に献上、秀次はそれを豊臣秀吉に贈りました。秀吉はそれを岐阜城主で、信長の嫡孫にあたる織田秀信に…

【刀剣紹介】北野藤四郎

北野藤四郎 『享保名物帳』追加之部所載の名物、京の粟田口吉光作の短刀です。これはもと京都の北野天満宮の籠め物だったので、北野藤四郎と名づけられました。もと織田信長の所蔵で、天正八年(一五八〇)二月二十二日、堺の津田宗及が京都に行ったとき、拝見…

【刀剣紹介】狐切り貞宗

狐切り貞宗 出羽国山形城主・松平下総守忠弘が、元禄五年(一六九二)十二月二十八日、将軍に献上した短刀です。忠弘が老後、病をえて江戸に定住すると、本国の白河では家臣が二派にわかれて抗争したため、白河から山形に転封、五万石減封のうえ、閉門を仰せつ…