登録証のない日本刀を見つけたら
祖父の刀を売ることにした
花粉症になることもなく無事毎日を過ごしています。最近、祖父が亡くなり遺品整理で刀や脇指、短刀が数振り出てきました。ほとんど私が譲り受けましたが、1振だけ登録証(銃砲刀剣類登録証)が見つからず、刀剣買取の鋼月堂さんに相談させてもらいました。
登録証がある刀剣類は、譲り受けた場合は名義変更が必要です。そして、問題はこちら、登録証がない刀を所持するのはもちろん売買することもできません。銃砲刀剣類等所持取締法違反になります。実際に発見届を出したので詳しく記載しますね。
登録証のない日本刀を見つけたら発見届
1.発見した地域を管轄する警察に電話
今回の場合は私が住んでいるところではなく、刀を発見した祖父のところの所轄の警察になります。担当部署は生活安全課です。いきなり持っていくより予め電話連絡しておくことをおすすめします。私の場合は、「家から登録証のない刀が出てきたので発見届をしたいのですが」という感じで電話をすると、担当官に何振あるかとか、いつ発見したかとか、経緯を聞かれますが正直に伝えておきましょう。
2.刀剣類を持参して管轄の警察へ
担当官から「いまから刀剣を持って来て下さい」と言われたのでゴルフバッグに刀を入れて警察に行きました。
3.担当部署は生活安全課
警察では発見場所などより詳しい経緯を聞かれます。担当部署は生活安全課です。警察は届け出た刀剣を登録するかどうかの権限はありません。事件性があるかどうかだけです。発見届に記入し、刀剣の種類、刀の長さ、銘などを寸法、銘などを控えて警察署長名で「発見届」の受理書をくれます。時間にして1時間くらいでした。
4.担当部署は生活安全課
警察署から「刀剣類発見届出済証」が交付されサイン捺印をします。
※運転免許証など身分証明書も必要です。
5.登録審査
無事、刀剣類発見届出済証をもらえたら次は都道府県教育委員会の登録審査です。
地域によっても審査をする日は異なるようで、こちらは刀屋さんに委託しました。
あとは登録証(銃砲刀剣類登録証) が発行されるのを待つだけです。
まとめ
登録証がないのを知っていてそのまま所持することは駄目ですが、刀剣を発見時に登録証がない場合は刀屋に相談するのが良いでしょう。警察の話では登録審査でもし登録不可となった場合は情報が警察に伝わるのでゴミと一緒に捨てたりすると処罰されますよとのこと。登録不可となったものは所持できませんの警察に再度持っていって廃棄処理をすることになります。
【偉人の刀剣】桐野利秋の刀
桐野利秋の刀
戦前、鹿児島の南洲神社参考館に、利秋の佩刀として白柄、朱鞘入り刃長三尺二寸(約九七センチ)、「平安吉」と在銘の大刀が陳列してありました。これは利秋がまだ吉野村で百姓をしていた時分、家財道具を売り払ってまでして、購入したものともいいます。
同じく参考館の陳列刀に、差し表に「相模国清水宗吾源久義 安政三年内辰正月生足日」、裏に「神武主武蔵国人堂塔馬之助源義敬自相鍵」、と長銘の刀がありました。これは上野戦争の前日、朝湯からの帰途、神田三崎町の路上で、彰義隊の鈴木隼人ら七名に襲われた時の差料でした。
これで鈴木ほか二名を斬り伏せたが、非常な激戦で、無数の刃こぼれができました。それで桐野の「歯折れの刀」といって有名になりました。
同じく参考館には、金銀造りのサー ベルもありました。中身は明治二年、山形の鶴岡藩主・酒井忠篤が鹿児島に来遊のさい、贈られたもので、刃長二尺四寸五分(約七四・二センチ)、無銘ながら綾小路定利の名刀でした。城山で戦死すると、従僕が未亡人に届けたので、今も桐野家に伝来しています。
なお、桐野が城山で最後まで激闘した刀は、関住和泉守兼定だったとも、会津住和泉守兼定だったともいいます。これにはさらに京都で西陣の織物問屋の娘を救った際、贈られたものとの艶話までついているが、信じがたいです。
桐野は征韓論に破れた西郷に殉じて、東京を去るとき、馬で湯島の愛妾・お秋の宅に乗りつけました。門前で形見として、粟田口久国の短刀を与え、そのまま駆け去りました。その短刀は中川宮朝彦親王より拝領だったといいます。桐野は文久二年(一八六二)上京、中川宮付きの衛士になっていました。親王より拝領した可能性はあるが、愛妾との艶話は創作でしょう。
桐野は陸軍少将にまで栄達したので、名刀も求めていました。その一つに、西蓮極めの刀が現存します。いかにも西蓮らしい刀です。金象嵌銘で「虎徹桐野利秋帯上之」、とある刀もかつて拝見しました。これには桐野が江戸の戸塚ケ原で、試し斬りしようとしたところ、かえって取り抑えられました。相手は誰あろう、千葉周作だったといいます。これも創作臭が強いです。
そのほか、法城寺肥後守吉次の刀にも、桐野旧蔵と称するものがあります。佐石藤次郎という青年が西南の役に従事する時、桐野からもらったという肥前忠吉後代の刀も現存します。この刀にも京都時代、浪人に乱暴されている娘を救ってやった謝礼として、娘の父から贈られた、という話がついているといいます。
参考文献:日本刀大百科事典
【偉人の刀剣】蓮如の刀
蓮如の刀
浄土真宗・本願寺の中興の祖と仰がれる蓮如は、親鸞より数えて八代目です。のちの大坂城は、蓮如が建てた石山本願寺の跡です。蓮如が八郎左衛門入道に宛てた手紙に、「彼太刀之事、よその人所望候様に了簡候て給可く候。いかやうにも方便候て、たかく候とも、とりたき由たのみ候て申候」とあります(光慶寺蔵)。この手紙は、蓮如自身が彼太刀をぜひ買ってくれ、と言っているより、よその人に頼まれて、購入の仲介をしている、と解釈すべきであろうが、蓮如自身も刀剣に関心の深かったことは窺えます。
加賀国能美郡能美の刀鍛治・将監家次は、蓮如に帰依し、性賢という法名をもらい、文明六年(一四七四)五月二十八日裏書きの名号、一幅を授けられました。それが現在の正賢寺の開基です。このことも、蓮如が刀剣に関心の深かった一例といえます。
長船賀光の刀に、「備州長船賀光 けんしゅ坊 寛正五年二月日」、と切った二尺二寸余(約六六・七センチ)の刀があります。この「けんしゅ坊」を兼寿坊と解釈し、蓮如の注文打ちとする説があります。蓮如の諱が兼寿だったからです。しかし、刀銘の「けんしゅ」が、兼寿である証拠は何もありません。蓮如より十二歳年長で、臨済宗の高僧だった桂庵も、字を玄樹といいました。仮名で書けば同じく「けんしゅ」です。
この刀は、織田信長が遠山美濃守に与えたものといいます。当時、遠山家に美濃守と称した人はいません。おそらく美濃国苗木城主の遠山家の誤伝でしょう。遠山左近友賢が死去すると、嗣子がありませんでした。織田信長は一族の右衛門佐友勝をして、遠山家を継がせました。したがって、この賀光の刀をもらったのは、この友勝のことでしょう。その子孫は江戸期になっても、苗木城主として一万石をはんでいました。幕末の友寿が美濃守と称していました。織田信長からこの刀をもらった遠山美濃守、というのは、この友寿の誤伝と見るべきです。
参考文献:日本刀大百科事典